Thank you April Fool's Day!
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『疵痕』 Written by Takumi


 小雨の降る中で行われた進水式が終演の兆しを見せかけた頃。
 居並ぶ高官達の中で誰よりも異彩を放っていた一団が、ゆっくりとそれまで進水式を見守っていた見物客に向かい合った。
 先頭に立つのは団員と同じく、黒地に金で飾られた軍装姿の皇后グラーシカ。
 その薄茶の瞳が観衆を見回した瞬間、それまで騒がしかった軍港一帯がシン…と静まりかえった。
 決して位高げではない、だがどこか民衆を圧倒させる雰囲気を持つ彼女。ユリ・スカナの血がそうさせるのか、本人の類い希な美貌も相まって、その場にいた誰もが彼女の次なる言動を見守った。
「『サグラ・グラーシカ』は今この瞬間、歴代の旗艦に名を連ねた」
 誰一人声を発しない、物音を立てない。彼女の声に、誰もが聞き入っている。
 まるで女帝のようだと、彼女の様子を宮中でそう表現しない者がいないわけでもない。だが不思議と彼女が現皇帝ドミトリアスを脅かす存在だと危ぶむ者はいない。
 絶対的な存在。絶対的な皇后。
「その機敏さ、美しさをもって『サグラ・グラーシカ』おそらく歴史に名を残す名鑑となるであろう。その旗艦が海に放たれた記念すべき瞬間を、そなた達と共に迎えられたことを嬉しく思う」
 そこでふと言葉を句切り、改めて観衆を見回す。返ってくるのは期待のこもった眼差し、隠しきれない興奮に彩られた表情の数々。
 紅をはいたようなグラーシカの唇が弧を描いた。
「『サグラ・グラーシカ』に幸あれ」
 言い終わった瞬間、それまでの静寂が嘘のようにワッと歓声が上がった。どこからともなく「グラーシカ皇后万歳」の声が響き渡る。
 その全てに応えるように、更に濃くした笑みを惜しみなく晒すグラーシカ。
 観衆の熱気は一気に高揚した。後ろに控えた皇后親衛隊も、誇らしげな顔でそんな主を真摯に見つめる。
 だが一人。
 口元に僅かな苦笑を浮かべ、皇后の背中を見つめる者がいた。
 顔立ちは至って秀麗。小雨に濡れた銀髪がしっとりとその頬を覆う。指先で払った瞬間、その隙間から不釣り合いな傷が覗いた。
 タウラ・グナウスカヤ。
 誰よりも皇后に近く、また、誰よりも皇后を愛する親衛隊隊長だった。

「お疲れのようですね」
 式典後、自室に引き上げた途端長椅子に身を横たえた主人を横目に、タウラは冷水をグラスに注ぐ。その口元には僅かな微笑。
 国民をはじめ高官の前では皇后然としたグラーシカも、一度人目から解放されれば十代のそれと同じく、まだ幼く若い。だがそんな彼女を目にすることができるのは宮中でも極限られた人間のみで。それがタウラには誇らしかった。
「当たり前だ」
 差し出されたグラスを受け取り、一気に冷水を飲み干したグラーシカがようやく一息ついたとばかりに盛大なため息をついた。
「連日やれ会議だなんだで…まぁ、今回の進水式が終われば少しはマシになるか」
 空になったグラスをタウラに渡そうと、ふと顔を上げたところで微笑を浮かべた親衛隊長に気づき、訝しげな表情を浮かべた。
「……何がおかしい?」
「三回ですよ」
「なにが?」
「旗艦の名を三度も呼ばれました」
「……良いじゃないか」
 ふてくされたような顔でプイと顔を背けたグラーシカに、たまらずタウラが笑い声を零した。
 自己主張の強い彼女。式典の合間も、自分の名を受けた旗艦を観衆に印象づけようとやたらと連呼していた。それが妙に子供っぽくて、彼女が歓声を浴びている間もつい笑みを浮かべずにはいられなかった。
 可愛いと、言ってしまえばきっとこの主人は面食らった顔をするだろう。そして呆れたように「何を言ってるんだ」と一蹴してしまう。
 だから言わないでおこう。この気持ちは胸の中で育んでいけばいい。
「もう宜しいですか?」
「ああ。それより…眠い……」
 連日多忙な毎日を過ごす年若い皇后。再び小さなあくびをすると、早速船をこぎ出す。四六時中張り詰めていた緊張の糸がようやく弛んだ瞬間だった。
 そんな主人を邪魔しないようにと、タウラは受け取ったグラスを下げようと、一旦長椅子から離れて部屋の隅に近づこうとした。だがそんな彼女の動きを阻むものがあった。
 裾を引っ張る者がいる。誰が。疑う余地などない。この部屋には自分と、グラーシカしかいないのだから。
「…………」
 しばらくその手を見つめる。剣を持ち慣れた、女にしては筋の張った手。だが今は頼りなさげに自分の裾を掴んでいる。
 何を恐れているのか、何を寂しがっているのか。
 普段気丈に振る舞う彼女には、しばしこのような一面が見え隠れしていた。それは決まって本人の意識がないところで。
 初めて彼女に出会ったのは彼女が十一歳の頃。まだ幼さの影がちらついていた彼女は、それでも精一杯の背伸びをしていた。その緊張がほぐれるのは大抵彼女が眠りについてからで。タウラタウラと、昔は良くこうして手を繋いだものだった。
 そして今。再び彼女は自分を求めている。無意識に、残酷に。
「グラーシカ様…」
 普段は「陛下」と敬う部分を、あえて名前で呼んでみる。自己満足だとわかっていても、その響きに何よりの幸せを感じるから。
 空のグラスを床に置く。空いた両手をそっと、彼女が横たわる長椅子に覆い被さるようについた。
「眠って…いらっしゃるのですか」
 問いかけは囁くように小さい。まるで内心の心情を表すかのように。
 起きないで、そのまま眠っていてと。僅かながらも存在する願望を忠実に実行していた。
 薔薇色の頬、微かに浮かぶ目の下の隈。自分がこの世で最も美しい人だと認識している女性が、今こうして無防備に寝顔を晒している。
 少し、背中を屈める。彼女との距離が縮まる。吐息が触れた。どこに――…唇に。
「………ふ、……」
 微かに身動いだグラーシカが首をのけ反らせる。微動だにせず、その動きを見守るタウラに焦りはない。いっそ潔いほどの真摯な瞳で主の寝顔を堪能していた。
 手を伸ばす。少し戸惑いがちに、一度は引っ込め、それから再びゆっくりと。触れた先は髪の毛。無造作に流された金茶のそれを触れるか触れないか、ぎりぎりの距離と力加減でしばらくの間その感触を楽しむ。
 タウラの顔に僅かな笑みが浮かんだ。まるで子供のようだと、起きる気配のない主人の見慣れぬあどけなさに至福の時を感じ。
「もう少し、このままで……」
 いてください、と囁きは吐息に変わり。やがて笑みが消え、二人の距離が縮まった。
「……………」
 再び名前を呼ぶ。だがそれは唇を動かすだけの、音のない呼び声。
 主の顔に落ちる影が次第に広がり、規則的な寝息だけが唯一たしかな音となる。
 あと少し、この身を屈めれば。
 あと少し、この時間が長引けば。
 長椅子に添えた手がいつの間にか強く握られていた。それに気づいて、小さく笑う。
 その瞬間、呪縛から解かれたように体中の力が抜けるのを実感した。今の自分の間抜けな体勢を思い出し、苦笑を浮かべる。
 らしくない行動。もう何年秘めてきた想いか。今更晒す想いでもないだろうと、自分を卑下しては情けないとばかりに首を振る。
「なにをやってるんだろうな…」
 独り言のように呟いてそっと長椅子から身体を起こした。だがそれを阻止する手が、ふいに腕を掴んだ。振りほどく間もなく引き寄せられる。
 筋張った手。かといって、男性のそれではなく。自分と似通った剣を持ち慣れた手だった。顔を上げなくても誰だか分かる。だが確かめずにはいられなくて。
 目にしたのは見慣れた薄茶の瞳。悪戯っぽく笑ったそれに、らしくない声を上げた。
「へい…!」
「度胸のない」
 このぐらいしてみろ、と小さな声がして頬の傷に温もりが伝わった。それが彼女の唇だと知ったのは、相手がすばやく身を退いた時で。
 寝起きにしては俊敏な動き。つまり全ては狸寝入りだったということで。分かった瞬間、普段は無表情なタウラの顔に不機嫌そうな色が浮かんだ。
「陛下」
 心なしか声さえも低い。だが見慣れた主人は怯むこともなく、僅かに乱れた髪の毛を手櫛で整えていた。
 先ほどまで自分がそれに触れていたのだと、改めて見せつけられているようでわざとそこから視線を逸らした。口づけられた傷が熱い。
「冗談が過ぎます」
「どっちがだ」
 笑う彼女はもはや相手をする気がないのか。それともこの件はこれ以上追求したくないと言う意味か。
 横たわっていた長椅子から威勢良く立ち上がる。自然向かい合うような形になり、目を逸らしたところで顎を捕まれ正面を向かされた。
「本気か?」
 それが何を意味しているのか、今更問うほど馬鹿ではない。だから薄茶の瞳を見据えて唇を開く。一呼吸置いた後、はい、と神妙に頷けば再び明るい笑顔が目の前。思わぬ展開に内心首を傾げてみると、
「なかなか面白い嘘だったぞ」
 上出来だ、と笑う彼女が今日が何の日かをそっと耳打ちする。数多い記念日の中でも特に奇妙なこの日。公然と嘘をついても叱られない日。
 今日がエイプリルフールだと。
「……あ…」
 ようやく合点がいったのか、タウラの顔にも拍子抜けしたような、それでいて安堵の色が僅かに浮かぶ。同時に主人に深く感謝した。
 部下が上司に手を出せば、間違いなく何らかの罪を負う。相手が皇后となれば親衛隊隊長でもタダでは済まない。悪ければ辞任もあり得る危険をはらんだ行為だ。
 だがそれをあえて行事に絡め、何もなかったように振る舞う。こちらに不手際はなかったと主人自らが後押しする。
 そうすることによって、手を出した本人はただ頷くだけで、全ての罪が洗われるのだ。
 だがそれと同時に暗に囁かれる、忘れろ、諦めろ、という声。優しさと紙一重に存在する、残酷な牽制。
 果たしてどちらが良かったのか。
 複雑な想いに苦笑を浮かべ、タウラが次に取った行為というと。
「皇帝陛下を引っ掛けるには絶好の機会ですね」
 吹き出したグラーシカを見て、ようやく、タウラの顔に笑顔が戻った。
 その後手を組んだ皇后と親衛隊長によって、皇帝ドミトリアスがとんでもない失態をしたかどうかは、神のみぞ知る。


というわけで、ユリ・スカナ出身者による百合の話です(笑)←身も蓋もねぇ…
これまで散々ホモを書いてきたことへの反動か、今回は何が何でも百合で決めてやると意気込んでおりました。
新地開拓ですね。でもホモと違ってこちらは一切その手の表現がないんで、安心して読めるんだけど…その分書きにくいのもたしか(笑)
でも今までやったことのなかったジャンルなんで、色々と楽しく書けました。
個人的には文中のタウラの台詞「へい…!」がなんだか「ヘイ!」と浮かれてるように聞こえてしょうがないんですが…(笑)
見目麗しい女同士。特にくっついて問題はないでしょう。
ただタウラが少しグラーシカに踊らされてるのが残念でしたが(^-^;
次回があれば、そのへんも検討していきたいです。
というわけで、苦し紛れの嘘シリーズですが、楽しんでもらえれば幸いですm(_ _)m

 

 


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