『君を迎えに行く瞬間』
身体を圧迫する空気。
しばらく我慢したあと、フワッと浮遊感にも似た開放感に包まれる。
何度体験してもこの瞬間にはどうにも慣れそうにない。
各所に設置されたシートベルト着用のライトが一斉に消えたのを確認して、窮屈な締め付けを解除した。それと同時に流れる機内放送。
「本日は全宇宙航空をご利用頂き、誠にありがとうございます。これより当機は……」
その声に耳を傾けながら、シートを倒して読みかけの本を開いた。その拍子に、しおり代わりに使っていた写真が床へと滑り落ちる。
「……ぁ…」
「どうぞ」
隣に座った女性が笑顔で写真を手渡してくれた。年の頃は六十代後半といったところか。
軽く黙礼をして写真を受け取る。
「ありがとうございます」
「綺麗な方ね。婚約者?」
言われた言葉に苦笑した。やはり見られていたらしい。
受け取った写真を見返して、そこに写った女性の姿に知らず笑みを浮かべる。
数日前に届いたメールの文面が思い出された。彼女らしい綺麗な言葉遣いと話題に富んだ内容で、離ればなれに暮らしていることを全く感じさせない様子が嬉しかった。
その彼女から届いたメール。
『最近ようやく人様に出せる料理が作れるようになったの。両親はまだまだだって言うけど、たぶんシドー君達が食べた時よりはずっと腕は上がってるはずよ』
文面を思い出し、再び微かな笑みを浮かべた。たしかに地球で頂いた時の彼女の料理はお世辞にも美味しいとは言えなかった。でもそれが逆に完璧な彼女の唯一の弱点で、自分にはどうしようもなく可愛く見えたのだとは、今だからこそ言える台詞。
その彼女がなんとか自信を持って巧くなったと言うのなら、きっとそれは並々ならぬ努力の賜物だろう。根が真面目な彼女のことだから、その様子は容易に想像できた。そして必死に鍋やフライパンと格闘している彼女を思い、喉奥で小さく笑った。
それを目ざとく見つけた夫人が同じように、嬉しそうな笑顔で応える。
「よほど素敵な方なのね。お似合いだわ」
「…………」
はにかむような表情は、かつての自分を知ってる者には想像もつかないだろう。彼女と知り合って、少なからず変わった自分。相手を思いやる気持ち、自分の感情を素直に表に出す術を彼女に教わった。
きっかけは…彼女とメールをやり取りするようになって約一年が経った頃。文章の最後に添えられた一文だったと思う。
『私はもうあなた達の上司じゃないし、いつまでも少尉って呼ぶのも変じゃないかしら?』
つまりは、名前で呼べと。そういうことだろうか。
曲解だと指摘されるかもしれない。でもそう思う一方で、確実に喜び勇んだ自分がいるのもまた事実で。その時の自分の浮かれ様は当時の同僚達から密かに「シドーが狂った」と噂されるほどだった。
思い出してまた少し、頬に赤みが増した。ただそれは自分を見慣れた者にしかわからない程度の赤みだったけれど。
その時、突然ピーッという緊急ベルと同時に機内放送が流れた。一瞬にして静まり返る搭乗客と、アナウンスから流れる微かに上擦った声。
「お客様の中でどなたかお医者様はいらっしゃいませんでしょうか?いらっしゃいましたら、お近くのクルーに名乗り出てくださいますようお願い致します」
機内全体に放送されたのか、わずかにエコーが掛かった放送が一瞬にして搭乗客の間に緊張感と好奇心を呼び起こした。
「誰が倒れたって?」
「気圧の関係じゃないかしら…私もなんだかさっきから頭が痛いのよ」
口々に好き勝手なことを言う様子をちらりと横目で確認してから、本を閉じた。こうなると悠長に本を読んでる場合じゃない。
「どなたかお医者様はいらっしゃいませんか?」
同じようにして客席の間を添乗員達が声を大にして通り過ぎていく。ざわめきがどこからともなく事の真相を伝達してきた。
「ラバトリーで倒れてたんですって」
噂を聞き入れた夫人が眉根を寄せ、哀れみのこもった声で囁いた。
それに頷き返し、そうですか、と答える。先ほど手にした写真を見つめ、薄く微笑んだ。
ようやく、この日が来ましたよ。
「患者はどこですか」
席を立ち、立ち往生するクルーに声を掛ける。背後で夫人が息を飲むのが聞こえた。
「まぁ…あなた、お医者様だったのね」
その声に振り返り、はい、と頷いた。同時に彼女からのメールを思い出す。
『先日のメールを見て驚きました。医師免許取得、おめでとう。これでシドー君も立派なお医者さんの仲間入りね』
少し子供っぽい口調は、きっと彼女の中の自分のイメージがまだ十代の青年だった頃のものだからで。時折それが既に二十歳を超えた自分にはむず痒く感じる。もどかしさ、と言っても良いかもしれない。もう子供じゃないから。もう、あなたを迎えるに十分な資格を取ったから。
そういう意味で今回の資格取得のことを伝えたのに。
長すぎる片思いはなかなかどうして、ゴールは遠く険しいらしい。
「良かった…こちらです、急いでください」
「医療器具は?」
「簡単なものなら…でも……」
「いえ、いいです。行きましょう」
口ごもるクルーの言葉を遮った。あのジャングル時代に比べれば、空の上の密室などどうということはない。不衛生な場所、足りない医療器具。その中でも自分は立派にやってきたじゃないか。
そんな妙な自信があった。
ちら、と横目で見た巨大ディスプレイには機体の航路が記されている。その先は確実に月を目指していて……。
「月まではあとどのくらいで到着します?」
足早に先を行くクルーに聞けば、すぐさま「あと3時間です」との答え。笑みが浮かんだ。
あと3時間。
あと3時間で彼女に会える。
機体後部のラバトリーへ向かう途中、居合わせた客席がなぜか拍手で自分を見送った。
それがまるで自分の未来を祝福しているようで。
それに応えるように、静かに親指を突き上げた。
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