記憶の欠片Written by Takumi


 廊下で微かな話し声とドアの開く音がする。
 連日の祝宴を終え、ようやく引き上げの準備に取りかかった仲間が1人、また1人と基地をあとにしていた。
 その物音に耳を傾けながら、同じくトランクに身辺の生活用品を詰め込んでいたパードレは、一段落終えたところで腰を伸ばし見慣れた室内を見回した。
 長い間世話になった小さな個室。
 部屋隅に飾ってあったクロスもベッドカバーも、今は全てトランクの中に収まっている。
 もうこの部屋に、自分の痕跡は残っていない。
「おっと……」
 作業用にと着ていたぼろシャツのボタンがふとした拍子に取れて床に転がる。
 身体を曲げてそれを手にしたところ、ベッドの下にこっそりと積まれた空瓶の存在に気がついた。ラベルはウォッカのものだ。
「あいつ……」
 パードレは滅多なことで酒を飲まない。たとえ飲んだとしても、多少ワインをたしなむ程度でウォッカには縁遠い。
 ではこれは誰によるものか。
 瞬間脳裏に浮かび上がったロシア人の陽気な笑顔に、パードレは微かに目をすがめる。
 遺体が発見されたと聞いた時は理解できなかった。
 それこそ離陸直前まで軽口を叩いていたのに。10ポンドの行方にお互い躍起になっていたのに。
「人の部屋だと思って……いつの間にこんなに溜め込んでたんだ」
 手を伸ばし、積まれた瓶の1つを手に取る。
 ひんやりと冷たい空瓶には覚えがあった。10ポンドの前借りということで無理矢理奢らされたものだ。
 なにが前借りだ、結局踏み倒すんじゃないか。
 そう思う一方で、だが死んでもなお他人に迷惑を掛けるのがあいつらしかった。
 彼の本名。
 長すぎて、滅多に呼んでやることはなかったけど。
 今なら呼べるだろうか。
「ウラジミール・カルパコーヴォフ」
 呟いてみれば、やはり少し舌を噛んでしまった。そんな自分に苦笑する。
 彼の告解はまだしていない。それは彼の死を認めていないということなのか。
 自分で自分の気持ちが分からなかった。
 遺体は見つかり、埋葬も済ませたという報告すら受けたのに。
 未だにそれを理解する余裕がないのか。それとも、今でもなおあの不死身の酒豪がどこかで生きてると信じているからか。
 バンッ―――!
「な〜にしけた面してんだよ」
 扉が開くと同時に耳に入った声にハッとする。聞き間違えるはずもない、この軽口。
「ピロシ……」
「10ポンド、もらってないのに気づいてな。ちょっくら寄ったんだけど」
 ケタケタと笑いながら室内に入り、慣れた様子でベッドに腰掛けるのは死んだはずのピロシキ。生前と何ら変わりない、いや、それともこれは本人なんだろうか。戦場からまたいつものように、奇跡的な生還を果たしたんだろうか。
 混乱する頭でパードレはそんなピロシキをまじまじと見つめた。
 するとはにかんだような笑みを浮かべ、彼が肩をすくめる。よく見る光景だった。
「なんだよ、俺の顔になんかついてるのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ10ポンド。潔く渡しなさい」
 ニコッと笑われ手を伸ばされれば、あまりのふてぶてしさについ渋面を作ってしまう。
 こんな死人がいてたまるか。やはりこいつは帰ってきたんだ。
 安心すると同時に、いつもの調子が出てきた。憮然とした表情のまま腕を組み、ピロシキを見下ろす。褐色の瞳を再び見ることができた喜びを噛みしめながら。また再び、彼との会話を楽しむことに内心浮かれながら。
「なんで俺がお前に10ポンド渡すんだ」
 次いでトランクからしまったばかりのクロスを取り出し、目の前で首を傾げるピロシキを指さした。
「そんなことより、今こそ告解だ。今ならまだ間に合うだろ」
 だが言った途端、ピロシキの顔に不思議な笑みが浮かぶ。
 悲しみとも、喜びともつかない、不思議な微笑み。
「おい……」
「俺、天使に会ってさ」
 ぽつりとそんな彼が口を開く。足をぶらつかせ、天井を見上げるところはいつもと何ら変わりないのに。だが無性にその姿に不安定さを感じるのはなぜなのか。今すぐ抱きしめて、その存在を確かめたくなるのはなぜか。
「だからちょっと、もう告解には間に合わねーんだよな」
「なに言って……」
 ふわり、と彼が笑う。
 その姿が微かに薄らいで見えるのは目の錯覚からか。信じられない光景に、慌てて目を擦った。
「ピロシキ!」
 血の気が引くのがわかった。
 では彼は本当に死んだのか。死んでなお、自分に死別の挨拶をしに来たのか。
「10ポンドはどうなる!?このまま逃げる気か!?」
 自分でもバカらしいことを口走ってるなと思いながら、だが叫ばずにはいられなかった。
 少しでも彼を引き留めたくて。1秒でも長く彼の顔を見ていたくて。
 だが無情にもそう思えば思うほど、ピロシキの姿が曖昧に目に映ってしまう。魅力的な褐色の髪も瞳も、全てが記憶の産物になってしまう。
「ピロシキっ!」
 名前を呼ぶ。じっとりと汗ばんだ掌を握りしめ、目の前のロシア人をただ見つめた。
 その顔が僅かに歪められる。何かを堪えるように、眉根を寄せ。
「じゃあな」
「ピロッ……!」
 彼が笑むと同時に、唇に何かが触れた。暖かな感触、かすめるようなそれはきっと……
「……………ッ」
 堰を切ったように頬を流れた涙に驚いた。
 これまでなにがどうあっても、涙なんか流したことはなかったのに。
「くそ……」
 彼が座っていたベッドに拳を打ちつける。
 心なしかぬくもりが残っているように感じるのは、自覚のない願望からか。
 わからない。
 だが再び耳に入ってきた廊下のざわめきに、現実に引き戻されるのを知った。
 全ては夢だったのか。
 ではこの胸の痛みも、頬を伝う涙もなにもかもが夢だったと。
「そうかもしれんな」
 小さく笑った。
 そうすることで自らを慰めるように、いつまでも。ベッドに突っ伏し、肩を震わせ。
 やがて部屋の隅に転がった酒瓶を取り上げ、パードレは丁寧にトランクにしまい込んだ。
 基地での思い出の品。
 そして、今は亡き友との記憶の欠片として―――。


あぁ〜……こんな臭い話になる予定ではぁぁ〜〜(ToT)
なんだよ、この漫画のような展開は!
文才を…誰か俺に文才を……げはっ!(吐血)
というわけで、前作から最も死相が強かったピロシキがこういう展開になってしまったんですが。
あの挿し絵には本屋で立ち読みした瞬間ビビらせてもらいましたよ……
でも彼は彼なりの天使に会えたってことですよね。
それは彼にとっては幸せな最後だったんじゃないかな……ただ死ぬよりも、今際の際に念願の天使に会えたってことはさ。
あくまで俺の考えなんですが。っていうか、もっとこう、思ってることを巧く言葉にしたいもんだ(T-T)
とはいえ、1人でも多くの人がこの陽気なロシア人のことを覚えていてくださると嬉しいです。

 

 

 


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