気がつけば、いつもこの場所にいた。
人々の物言いたげな視線にさらされた時。それでもクナムの子かと罵倒された時。
涙を堪えながら、何度足早にここを訪れただろう。
村からわずかに離れた高台。
そこから見下ろすザカールの村は、ただ茶色一色の小さな代物に見えた。
決して豊かとは言えない土地。いずれ、この全てが自分の物になる。
不思議と愛おしいという気持ちは湧いてこない。むしろこの忌まわしい土地に自分を縛り付ける存在として、リウジールは睨み付けるように眼下を見下ろす。
ザァ…と背後から吹き寄せる風に耐えるように、足を踏ん張った。それを見ていたかのように、呆れたような声が降りてきた。
「ここにいらしたんですか」
穏やかな、それでいて芯の強さを伺わせる声音に自然と笑みが浮かんだ。
「レイザン」
年上の幼馴染みを振り返り、来いよ、と手招きする。
「剣の練習はもう終わったんですか」
「……あいつは嫌いだ」
クナムの息子として村一番の剣士に教えを請う。リウジールの日課は、だが同時に彼の最も苦痛の時間でもあった。
リウジールが何か失敗をする度に、彼はこっそりとため息をつくのだ。そして決まって呟く。「ラクリゼならこんな失敗はしないのに」と。
彼ばかりではない。自分を取り巻く師となる人間全てが、同じ名前を口にする。
ラクリゼ、ラクリゼ…みんなそればっかりだ。
名前でしか聞いたことのない兄の存在に、残されたリウジールは今も苦しめられる。それは乗り越えられない絶対的な存在。理想のクナムとしての兄は、リウジールにとっては ただただ重い足かせでしかなかった。
だがレイザンは違う。彼は決して自分の前でラクリゼの名前を口にしない。
それどころか次期クナムとしてではなく、ただのリウジールとして自分を扱ってくれる。
今のリウジールにとって、唯一の心安らげる存在だった。
「わたしは好きですよ」
「なにが?奴がか?」
「いいえ」
目が合ったレイザンがふわりと笑みを浮かべた。ザカール人にしては穏やかな容姿。
リウジールは彼の笑顔が好きだった。自分だけに笑っていてほしいと思ったことも、一度や二度ではない。
その彼の次の言葉を待って、知らず胸が早鐘を打つ。ゆっくりと唇が開いた。
「あなたの剣を扱う姿が、わたしはとても好きです」
言われた途端、サーッと頬が赤くなる。恥ずかしくて俯いた。
いつだってそうだ。自分はレイザンの些細な一言でいとも簡単に踊らされる。
今日だって大方あの剣士に文句を言われて自分を捜しに来たに違いない。奴とレイザンは昔からの馴染みだから。
でもそれを悟らせない優しさが好きだと、素直に思える。
「そうかよ」
「ええ」
「しょうがねぇな。そうまで言うなら帰ってやるか」
精一杯の強がりを、きっと彼は知ってる。だから、何も言わず自分のあとをついてくる。
いつまでも、こうで在りたい。
先を行くのは自分で構わない。クナムとしてそれは求められる責務だ。
だがせめて自分の背中を見守るのは彼でいてほしいと、背後にレイザンの気配を感じながら、リウジールはギュッと奥歯を噛みしめた。
開け放たれた扉から一斉に差し込む光。それが篝火によるものだと気づいたのは、一歩二歩と先に進んだ先で広がる光景を見た時。
一族の高官達がズラリと居並び、自分に向かって深々と頭を下げている。これだけの人数が揃っていながら誰一人口を開かない。それは一種異様な光景だった。
何かを言いかけようとして、だがその唇が最前列で自分と対峙する人間を見て固まる。
見慣れた体躯。顔を伏せていても、自分が彼を見間違うはずがない。
その瞬間、全て察した。
「そういう…ことかよ……」
ガサガサに乾いた唇から漏れた呟きは、誰の耳にも届かない。
全て、仕組まれていたのだ。彼もその一人で。いや、むしろ彼こそがこの儀式の総指揮者だったのだろう。
何も知らなかったのは自分だけだ。自分だけが、今の今まで何も疑わず彼を信じていた。
「ここに新たなクナムを迎えられましたこと、我ら一同…」
朗々と祝いの口上を口にするレイザンが、顔を上げた瞬間言葉を失った。
突如止まった祝詞に、何事かと視線を起こした高官達が次々と驚愕の声を上げる。
そこにいたのは、血染めのクナム。
神聖なる儀式の間に血などあってはならないはずなのに。その身を染める血が誰の者であるか、考えるまでもない。
クナムの儀式は親殺し。
それは高官である誰もが知っていることだった。だがリウジールの様は、その一言で片づけるにはあまりにおびただしい血を浴びていた。そして何より禍々しい朱色が彩る唇は、獣のそれのようにべっとりと、まるで獲物を仕留めたあとのように赤く濡れては彼の異様な様を際だたせている。
そしてリウジールは見た。
自分を見つめる幼馴染みの瞳に一瞬浮かんだ、苦渋の色を。
哀れみか、はたまた嫌悪か。だがもう、どうでも良かった。身体から昇り立つ血の臭いがそうさせるのか、ただ覚えるは狂気のみ。
「…は、はははははは……!」
そして彼は高らかに笑った。
引きつるような、甲高い笑い。
それは彼が人間だった、最後の瞬間だったのかもしれない―――。
あの時の彼と同じように、村を見渡せる高台に足を運んでみた。
村の様子はあの頃と比べ様変わりしていた。もともと静かな土地であったが、今は荒れた大地にその傷跡が生々しく残るだけだった。
もはや、クナムと呼ばれた男はいない。
だが彼の意志を継ぐ存在を腹に宿す娘はいる。
その子をどうするか、今はまだ考えられる状態ではなかった。村の復興、人々の救出、そして今後の村の在り方。やることは山のようにある。
「結局あなたは、わたしに面倒ばかり押しつけていかれたんですね」
見上げた雲一つ無い空に向かってレイザンは笑ってみせた。
村人からは恐れられたクナムだった。歴代のクナムを凌ぐ力を持ったリウジールは、だが自分にとっては不思議と昔の面影が消えない少年で。
どんなに無茶をしようと、力を見せつけようと、どこか憎めなかった。
『お前は子を成さないのか?』
いつだったか、ザカールの大祭を前にふと彼に聞かれたことがあった。
大神官ともなると、その血を求める女は多い。ザカール人は何より強さを求めるから。大神官を担う人間の力を宿したいと願うのはごく自然な流れだった。
だが彼は未だに一人として子を成していない。
これまでにも何度となく周囲から聞かれた質問だったが、リウジールから問われたのは初めてで、でもなぜかその問いに面はゆさを覚えたのも確かだった。
『そうですね、クナムがもう少し私の手を煩わせないようになったら考えましょう』
だからそんな軽口が言えた。
子供の面倒よりも、今はあなたの世話だけで手一杯だと。
臣下にしては出過ぎた返答だったのかもしれない。
だが不思議とその時のリウジールは何もとがめず、視線を逸らしたかと思うと口早に呟いた。
『ならもうしばらく、お前は俺だけ見てろよ』
言われた言葉に、なに、と聞き返せば、なんでもない、と慌てたように部屋を出て行った。その頬が微かに赤いと思ったのは自分の希望が見せた幻だったのかもしれない。
だが彼が去った部屋の中、一人、しみじみとした幸せを噛みしめたのは事実で――。
懐かしい、思い出だった。
そう、もはや思い出でしかない。
眠るように逝ったリウジールに、最後まで言葉を交わすことが叶わなかった。
あの惨劇の中、自分が軽傷で済んだのは彼が自分を庇ったからだと知った時の胸の痛み。
ありがとう、なんて絶対に言えない。
許されるものなら、眠り続けるその頬を思い切り殴り飛ばしたかった。
だがそれすら叶わず。
何も言わせられないまま、彼は静かに息を引き取った。
涙は出なかった。
幼馴染みの前に、自分は大神官だったから。クナムの死を悼むのに、たとえ十分な機能を果たさない村を抱えようと定められた儀式を施さねばならない。
どんなに深い悲しみを覚えようと、その哀しみに浸ることは許されなかった。
「本当に、面倒なことばかり…」
そしてようやく全てが片づいた今、ふと、彼がよくいた高台を思い出した。
気晴らしだったのかもしれない。はたまた、彼を失った感傷に浸りたかったのか。理由などわからないまま、足は自然とそこに向いていた。
そして懐かしい高台に立ち村を一望した時、視線の先に止まったものに一瞬呼吸を忘れる。
それは自分の家だった。
目の前に広がる村。そしてちょうどそこからまっすぐに見下ろされるよう配置された自分の家。
「……ッ…」
それまで一滴の涙が出なかった瞳から、堰を切ったようにあふれ出す滴。堪えようと思った嗚咽が、噛みしめた唇から何度となく漏れ響く。
彼はここで何を考えていたのだろう。幼馴染みの家を見下ろして。
悔しい時、哀しい時。この高台に来て、彼は何を思ったのだろうか。
もっと――もっとなにかできたはずなのに。
彼のために。彼は、それを望んでいたのに。
「…ッ、リウジール……!」
堪えることができなかった。
誰も見ていない。誰も見ていないのだから。
今この瞬間だけは大神官としての自分ではなく、ただ幼馴染みの死を悲しむ自分でありたい。
そう思い、顔を覆って泣いた。
いつまでも、涙は枯れることがなかった。
◆comment◆
書きためてた小説の中で最も末期な話ですよ(;´Д`)
この時の自分の精神状態がいかにダークだったか、今にしてよくわかるってなもんです。
でもこの手の素直になれない関係ってのは、書くには結構ツボだったり…。
おかげでリウジールが、これまた別人みたいに純情派で…この乙女好きがぁぁ!!
前回のエイセルといい、どうも俺は攻めの何気ない一言で受けがサッと頬を赤らめたりするのがたまらなく好きみたいです。あ、今更?
でもシリアスが2本続いたんで、次はちょっとコメディっぽいのを書いてみたいです。
……とか何とか言いながら、今書いてるのはグシャグシャに泣いてるちびキリだったりします(笑)
懲りてないなぁ、俺(^-^;