『魅惑の保健室』
「失礼します」
保健室と書かれたドアをくぐれば、プン…と鼻をついた消毒薬の臭い。
白を基調とした部屋は、どことなく薄ら寒い印象を与える。
「誰も…いないんですか……?」
いつもなら学校中の憧れの眼差しを一身に受けている保健医がいるはずだが、生憎と彼の姿は見られない。
普段は鬱陶しいだけの存在だが、いないと妙に寂しく感じるのは既に彼自身が生活の一部となってしまったからだろう。
そんなことを思いながら、見慣れた薬棚へと近づく。
「胃薬は…と」
磨りガラスのドアを開け、無数に並ぶ薬品を手に取っては一つ一つ丁寧に名前と処方をチェックした。
いつもは保健医が取り出すものを素直に受け取るだけで、実際はどこに胃薬が置かれているのか自分自身では把握してなかったのだ。
ジリリリ……ッと学院特有のチャイムが鳴る。一時間目がはじまったのだろう。
気にとめることもなく、再び物色を続けていたドミトリアスだが、
「……ん………」
消え入りそうな声に、ふと手を止めた。
部屋は誰もいなかったはずだが、と不信げな眼差しが再び部屋を見回せば目に留まったのは、簡易式のカーテン式仕切りの奥にあるベッドルーム。
記憶が正しければ、確か三つのベッドが設置されているはずだ。
だとすると、誰かがズル休みにでも使っているのだろうか。
一応教師らしい考えが浮かぶ。そしてもしそうなら注意しなくては、とも。
「おい、誰かいるのか」
ためしに声を掛けてみれば返事はない。
これは本格的に……と勢い良くカーテンを引いてみれば、天使のような寝顔を惜しみなく晒した弟アルゼウスが目の前。
「…アル……お前、また倒れたのか」
「……ん…ドーン兄上……?」
声を掛ければ、閉じた瞼から海を連想する青い瞳が現れる。
血は繋がっていないとはいえ、一応兄弟という位置にいるドミトリアスでもその様子には思わず目を瞠らずにはいられない。
と同時に、上級生の中に彼のファンクラブが存在するという噂も思い出す。
たしか組織を立ち上げたのは学校が雇っている用務員という話だが、どこまで本当なのかは未だ謎である。
なにせ山奥の全寮制学校は、日々目新しい話題に飢えている。
自然噂話がはびこるのも仕方がないのだろう。
とはいえ、この弟。
身体こそ虚弱だが、頭の出来はかなり良く今年の新入生挨拶も任された強者だ。
その上体育などの実技授業は常に見学態勢であるにも関わらず、持ち前の性格からか、同学年に疎まれることもなく総務などを担当している。
おかげで二年後の大学受験では我が校初の帝国大学合格も夢ではないと、もっぱら職員室でも話題である。
だがその彼が、今こうして目の前でベッドに横になっているのを見て思わず顔が曇るのは、決して上質の頭脳が熱によって破壊されることを恐れての心配ではなく、素直に身内に対する心配だった。
それがわかるから、アルゼウスの方でもうっすらと開いた眼差しをすぐさま笑みの形に変え、ゆっくりと上半身を起こす。
「無理するな」
その動きを制し、気遣う言葉を掛ければクスッと小さく笑われた。
「無理してるのは兄上の方でしょう?」
胃薬……と細い指先で薬棚を指さしてコロコロと笑うアルゼウスに、自然ドミトリアスの顔がゆるむ。
たとえ血が違えど、やはり歳の離れた兄弟というのは可愛いもんだ。
おまけにそれがこのアルゼウスだというのなら、浮気をした父親にも「良くやった」と誉めてやりたいぐらいだ。
だがそんな幸せな考えも、間近に迫ったアルゼウスの顔に気づいた瞬間消え去った。
「どうし……」
「僕じゃダメですか」
「なにが…アルゼウス?」
「僕じゃ、兄上を癒すことはできませんか」
返答する間を与えず、そっと唇に暖かいモノが触れた。
それが彼の唇なのだと悟ったときには、既に伸びてきた腕に右手を取られ、同時に引っ張られたかと思うとベッドに仰向けにさせられていた。
「なに言ってるんだ…アル。また発作が起こったらどうする」
背中に柔らかなシーツの感触を感じながら、精一杯の虚勢を張る。
それと同時に、いつの間にこの弟はこれほどの力を備えていたのかと驚いていた。
虚弱体質で、女の子も驚くような華奢な子だと思っていた。
細い腕。白い肌。
だが先ほど自分を押し倒した腕はたしかに男のもので。
彼も普通の男なのだと、妙にリアルに感じていた。
だがそうも言ってられない事態に冷や汗を感じつつ、うっすらと笑みを浮かべる。
つられたように、目の前にあるアルゼウスの顔にも笑みが浮かんだ。
上級生が『血の海に咲く白百合』と称する笑顔だ。
だが普段は相手を恍惚とさせるその笑みが、今は何よりも怖い。
「良い子だから、早くどきなさい」
「嫌です」
先生口調で改めて言ったのを、無下もなく断られる。
再び降りてくる唇に身を震わせ必死の抵抗をすれば、小さく笑った彼が諦めたかのようにそっと上半身を起こした。
そしてやおら口を開く。
「僕がどうしてこんな辺鄙な学校に来たか、ご存じないんですか?」
「…………療養と学習を兼ねてだろ」
そうだと思っていた。
少なくとも、つい先ほどまで。
だがその答えに再び笑ったアルゼウスが、微かに顔を近づける。またキスか、と身構えればフライングのように今度は耳たぶを甘噛みされた。
「………ッ…」
「兄上を追って来たって、言ったら信じてくれますか?」
「馬鹿か……」
どけ、とばかりに顔の両脇に降りた腕を軽く叩く。
その手を逆に握りしめられた。離せ、とばかりに睨み付けると、目にしたのは青い瞳一杯に涙を潤ませたアルゼウス。
溢れ出る涙は、さながら海のようである。
「お、い…なにも泣くことないだろ……」
おどおどと上半身を起こし、弟の肩に手を添える。
薄い肩。男らしさを感じさせない身体は先ほどとのギャップが激しくて、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
「僕は…兄上が好き、だったんです……」
しゃくり上げながら口を開くアルゼウスが、真摯な瞳で見上げてきた。
「キスだけで良いんです…それで、忘れます……だから…」
お願いです、とシャツの裾を掴まれ懇願されれば、それを断るのはあまりに非情だ。
ドミトリアスが大きくため息をつく。
仕方がないな、と語るその仕草に涙で潤んだ瞳を向けてきたアルゼウスに諭すように言う。
「良いか、一回だけだぞ」
「……はい…」
そっと肩を抱き直す。抱え込むように抱きしめ、顎を少し持ち上げた。うっすらと開かれた桜色の唇、微かに覗く柔らかそうな舌に見とれつつも、そっと触れるだけのキスをする。
途端……
「引っかかったぁぁーーッ!」
どこから出たのか、野太い声がしたと思ったと同時にぐいっと後頭部を押さえられる。
次いでぶつかるように触れた唇。なに…と声を挙げようとしたところを、隙をついて容赦なくアルゼウスの舌が入り込んできた。
「なっ……ん…ぅ……!」
ちょっと待て、とドミトリアスは一気に混乱に陥った。
一体何が起こったのだろう。
たしか保健室には自分とアルゼウスしかいなかったはずだ。なのにあの野太い声は…と考えたところで、ふとあることに気付く。
彼は…アルゼウスはああ見えて健全なる高校一年生なのだ。
とすれば、声変わりなど当たりまえ。というよりむしろ、変わってない方が異常である。
だが先ほどまでの彼はたしかに少年独特の声音で…自分に泣いて見せて……。
「ちょ…馬鹿、…はな、れろ……」
だが時は一刻を争う。そう悠長に考えてる暇はないのだ。
がむしゃらに唇を塞いでくるアルゼウスをなんとか突き放そうと、その顔を掴んでなんとか力尽くで離そうとするが、どこからそんな力が出てくるのかと思うほど自分を抱きしめる腕は力強い。
「大丈夫…大人しくすれば気持ちよくなりますから……」
「ばっ…アル、おま…え……!」
非難の声を挙げる間も、アルゼウスは顔に似合わない舌術でドミトリアスを陥落し続ける。
そうすることでなにがまずいかというと……
「…ぁ………」
ドミトリアスが本人の意志に反して感じてしまうことだ。
なんせこれまでの人生、教職一本で頑張ってきた。その勉強尽くしの時間に女性との性行為はほとんど皆無と言っていい。
「んっ…んぅ……」
ジワ…と下半身が熱を持つのがわかった。
ドミトリアスの頬にカッ…と朱が走る。それを認め、口づけるアルゼウスの顔にも余裕の笑みが浮かんだ。
「ね…言ったとおり」
「ふ…ぅ……」
その手がそっと、本人に気付かれないよう下肢へと伸びる。
目的はジッパー。
そこを落とせばあとはなんとかなる、と小悪魔のような考えで「いざ!」とばかりに手を伸ばしたところ、
「君たち、人の部屋でなにやってるんですか」
突然背後から声がかかった。
朦朧としていたドミトリアスの意識がハッと我に返る。
と同時に、それまでなんをやっても離れなかったアルゼウスが前触れもなく背後に吹っ飛ぶ。
「………痛ぅ…」
見事な調子で床に転んだアルゼウスが、キッと鋭い眼差しを張本人に投げつけた。
だが当の本人はどこ吹く風。
ゆったりと着こなした白衣の埃を払い、静かに笑んだまま二人を見下ろす。
「私の部屋で勝手なことはしてほしくないですね」
保健室の主、サルベーンだった。
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