『匂い』
胸ポケットに入れた封筒が重い。
見えない重力と権力に、ドミトリアスは足取りも重く中庭に面した渡り廊下を歩いていた。
「なんでこう、悪いことばっかり……」
今日はやたらと事件が多い。
気がつけば身体を触られ、あっという間に押し倒され、その結果を誰かに見咎められるとは。
「ああ、そうか。今年は厄年だった……」
ふと、今年のはじめに引いたおみくじの結果を思い出す。
こんな小さな事をいつまでも覚えているあたり、根本的に物事をうじうじと考える性格なんだということを当然本人はわかっていない。
再び鬱状態に入ったまま、長い渡り廊下をゆっくりと歩いていたところで、だが視界の端に止まった人影に足を止めた。
ほっそりとした体つき。多少癖のある髪型。辺りを何度も見回すのはこの土地に不案内なためか。
だがそんなことよりもドミトリアスを驚かせたのは、それが女性であったこと。
この辺境の地において、女性がどれほど珍しい存在か。カリエは既に見慣れた存在となったが、それ以外の異性となるとやはりどんな容姿・年齢であろうと否応なく目立ってしまう。
「あの……」
思わず声を掛けていた。
いや、教師として当然の振る舞いといえばそうなのだが。何分今までの環境が環境だっただけに、女性に声を掛けると誰かを出し抜いているようでどうも居心地が悪いのだ。
軽く頬を染め、呼び止めたドミトリアスを振り返った女性が驚いたように目を見開いた。
「…………!」
「なにか当校にご用でしょうか?なんでしたら私が…」
「寄るでない!」
伸ばしかけた手を、まるで害虫でも触るかのように振り払われた。おまけにその手を必死に服の裾で拭かれたので、自然ドミトリアスの顔に不機嫌な表情が浮かぶ。
「不法侵入者は取り押さえることになってますが」
「…が……か」
「は?」
「そちが、原因であったか」
なにを言っているのだろう。
目の前でわなわなと肩を震わせる女性を不審そうに見据えれば、作り物めいた女の顔が僅かに引きつった。
その顔色が次第に白を通り過ぎて青くなるのを認め、慌ててドミトリアスが声を掛けようとしたところで側の茂みから新たな人影が飛び出してきた。
弾かれたようにその方向に身体を向ければ、驚いたことに若い女性がもう一人。
走ってきたのだろう。肩を大きく上下させながら、それでも目の前の東洋美女を見つけてホッとした表情で近づいた。
「ジィキ様…急に走り出されていかがなさいました」
「こやつじゃ……臭いの原因はこやつじゃ」
はて、と首を傾げたドミトリアス同様、若い女も意味が分からないというように目を彷徨わせた。
その態度に焦れたのか、今にも噛みつきそうな勢いでドミトリアスに食ってかかる。
「男を惑わす臭い、男を誘う臭い。お前は禍をもたらす…ホモは……この世から立ち消えるが良い!」
「ジィキ様!」
「ああっ…おかしいと思っておったのじゃ!なぜわらわに未だに男ができぬか…このような輩がおるから、わらわに男が回ってこぬのだ!なにもかも、この男のせい!どんなにわらわがイカす髪型をしようと、転けそうな厚底靴を履こうと周りの男どもが全く振り向きもしなかったのは……げふっ!!」
奇妙な声に目をやれば、なんと東洋美人のみぞおちに拳が決まっていた。倒れかけた身体を、滑り込む絶妙のタイミングで受け止めたのは先ほどの若い女性。
扱いには慣れているようで、先ほどの狂乱した彼女の言動よりもむしろそれを見守っているドミトリアスが気になってしょうがないらしく何度も申し訳なさそうに頭を下げる。
「あ、あの…すみません、お騒がせして!」
「い、いや…その人、大丈夫?」
「いつものことなんです…気にしないで下さい」
言いながら、ズルズルと抱えた女性の身体をどこにそんな力があるのかという細腕で出てきた茂みの中に引きずっていく。
あとに残ったのは呆然とその場に立ちつくすドミトリアスだけ。
伸ばしかけた腕が、空しく宙に浮いていた。
「……なんだったんだ…」
いくら辺境の地だとはいえ、さすがに無理がある。
そして再び静かになった中庭で、脈絡もなく自分の袖に鼻を近づけてクン…と嗅いでみた。
「……別に、臭くないだろ」
声に出した言葉は、だが思った以上に気弱で。
気合いを入れるかのように、ドミトリアスは両頬を数度叩いてから再び渡り廊下へと帰っていった。
|