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『ジョーカー』
社会科準備室があるように、数学準備室というものもある。
春先だというのに、未だにヒーターが掛かった暖かな部屋で飲み損ねたコーヒーを心ゆくまで堪能しているのはドミトリアス。
だがその顔は美味しいコーヒーを楽しんでいる現状とは裏腹に、極めて厳しい。
「その顔、いい加減やめてもらえませんか」
人がせっかく美味しいコーヒーを入れたのに、と臆面もなく話しかけるのは数学教師のロイ。
丸眼鏡にもみあげがトレードマークの、ある意味問題を抱えた教師だった。
授業でなにをしているのかが外部に全く漏れていない時点でかなり妖しい。時にそれは錬金術だったり、普通の因数分解だったりと噂はまちまちだが、実際にロイに問いつめても返ってくるのは「生きる術です」といったトンチキな答えばかり。
これまで何度も職員会議で問題になったが、その度にのらりくらりとかわされ今に至る。
頭が良すぎるというのも時に問題だなと、ロイを見る度にドミトリアスは思うのだが、その彼となんだかんだ言って気の合う自分にはあえて言及しないでいた。
「なにがあったのか、大体わかりますけどね。いつまでも引きずって解決する問題でもあるまいし」
「……お前には優しい言葉を掛ける気持ちの一つもないのか」
「そんなお金にもならないこと、するはずないじゃないですか」
あっさりと言い切られ、思わず脱力するドミトリアスだが、この歯に衣着せぬ言い方が気に入っているのも事実だった。
返す言葉もなく黙り込んだついでに、久々の数学準備室を見回す。
勧められたイスは自分の物とは違い、明らかに新しい。
学校からの支給品はここ数年途絶えているはずだから、こんな新しいイスがここにあること自体おかしかったが、ロイにはロイの独自の入手ルートがあるのだろう。深く突っ込むと厄介な問題にはあえて聞かない。それが二人が巧くやっていける秘訣のようだった。
「そりゃそうと、機嫌の悪いときに更に悪い知らせで申し訳ないですけど」
「なら言うな」
「教頭がこれを渡してくれって言ってきましてね」
「………言うなと言っただろうが」
「いつ私が了解したんです」
にっこりと人の悪い笑みを浮かべたロイに、チッと舌打ちして、なんだ、と先を促す。
すると胸ポケットから取り出した一通の封筒を差しだし、笑いを堪えた顔で言葉を続けるロイに自然顔が曇った。
「たぶん呼び出しの知らせじゃないですか。それでなくても最近のミューカレウス君の行動は目に余りますからね」
「あれは俺の責任じゃないだろ」
「同じ兄弟。血が通ってるなら少しでも多くの目を掛けてやれ、というのが教頭の持論ですから」
「都合のいいときだけ兄弟扱いしやがって」
毒づいたドミトリアスに、口が悪いですよ、と無くなりかけたコーヒーをつぎ足してやりながらロイが笑いを堪えながら言う。
おそらく心の中では同じ事を思っているのだろう。
いや、彼のことだからこの身内劇を楽しんでいるのかもしれない。
「誰が理事長になろうと、そこはそこ。周りがしっかりしてないとどうしようもないでしょう」
だが時折、こんな風に核心をついてくることがある。
言い返せないのは、自分がそれに対する言葉をまだ持っていないからだ。ドミトリアスがじっとカップの中で揺れるコーヒーを見つめながら押し黙る。
どのくらいそうしていたのか、不意に額に温もりを感じて慌てて顔を上げればロイの掌が視界の端に映った。
「なんだ」
「いえ、熱でもあるのかと思いまして」
「らしくないことするな」
「あ、やっぱり?」
ケラケラと笑うロイに肩をすくめる。
カップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「ごっそさん」
美味かった、と礼を言いながらさっさと席を立つドミトリアスに、ロイが不審そうな眼差しをやる。
眼鏡がきらりと光ったのは決して窓から射し込む日の光だけが原因ではない。
「タダほど怖いものはない、という言葉をご存じで?」
「あ?」
「世の理ですよ」
笑いながら、ロイが眼鏡を外す。
その顔を見て、一瞬ドミトリアスは持っていたカップを取り落としそうになった。
「お前…ロイ、か?」
信じられない、という声にロイが笑う。
きらりと光りそうな勢いの歯が目にも眩しい。彼は、眼鏡を外すと美形だった。
「ええ。この眼鏡はカモフラージュで……」
この環境でしょう。色々と面倒で、と笑うロイに思わず見とれてしまいそうになった自分にドミトリアスもハッとする。
少女漫画にのみ許された設定だと思っていた。
眼鏡を外すと美形だなんて、そんな妙ちきりんな話。
だがこうして目の前で眼鏡を外したロイは間違いなく美形で。校内一の美男子と名高い保健医サルベーンをも凌ぐ勢いだった。
「それで話を戻すとして、コーヒー代もらいますよ」
形良い唇が、だが相変わらずロイらしい台詞を吐く。
そこでやっと笑えたドミトリアスだが、スッと近づいたロイに顎を掴まれぎくりと身体を強張らせた。
「コ、コーヒー代なら財布がそこに……」
「誰がお金で払えって言いました?」
そんな顔で笑うんじゃない、と叫びそうになるのを堪え、だがドミトリアスは頬が上気するのを覚えた。恥ずかしながら、目の前の端正な顔に見とれてしまったのだ。
「いや、でも俺なにも持ってないし……」
「持ってるじゃないですか」
ますます笑みを濃くするロイが、すっと掴んだ顎を上向かせる。
まずいと思ったときには既に唇に暖かい感触が……
「んっ…う゛、ん……」
両腕をロイの胸板に突き立て離れようとするが、どこのそんな力があるのかと思える力で腰を抱かれ全く身動きがとれない状態に陥った。
その間も微かに開いた隙間から器用に舌が入り込んで、ねっとりとドミトリアスのソレと絡み合う。
軽く吸い付いては優しく舐め上げ、丁寧に歯茎をなぞって確実に快楽を導き出す舌術にたまらず腰が抜けそうになるドミトリアスだ。
普段は禁欲的とまでは言わないが、とてもこんな事に精通しているキャラに思えなかったのに。
眼鏡一つ取っただけでこれだけ変貌するとは。
さすが長年少女漫画で使い回されてきた法則なだけに、そう簡単には覆せない威力がある。
だがだからといって、今現在こうも良いように扱われている理由にはならない。
「や、め…ろって……」
だが無理矢理唇を離し途切れ途切れに言ってはみるが、すぐさま追いかけてきた唇に再び塞がれあまり効果はないようだ。
続いて背中に回した腕でドンドンと容赦なく背中を殴ってみた。
そのまま振動が唇を伝わってくる。
だがそれすら刺激に変える勢いで、ますますロイの舌が強く絡まった。ゆるゆると先端で口腔内を犯され、次第にこちらまで変な気分になる。
「……ん、ぁ…」
声が出たのと同時に、唇が離れた。
なんで、と思う気持ちが顔に出てたのか、笑ったロイが手の甲で頬を撫でてきた。
そしてそれだけでビクッと感じてしまったドミトリアスに、再び笑う。
「毎度あり」
「え…あ、ああ……」
まだキスの刺激から戻れないのか、目元をうっすら赤くしたドミトリアスが口元を手の甲で拭きながらぼんやりと返す。
苦笑したロイが軽くその頬を叩き、
「あまりそうした顔を人に見せるもんじゃありません」
襲われても知りませんよ、と冗談とも本気とも取れる台詞を吐いた。
それには答えず、俯いたドミトリアスだがロイが眼鏡を掛けようとしたのを視界の端に認め、
「……あ…」
「なんです?」
「眼鏡、なんでするんだ」
勿体ない、と言外に含んだ台詞にフッと笑ったロイが、眼鏡を一回クルリと回したあとごく自然な仕草でそれをつけ、
「普段見せないから最終兵器って言うんですよ」
いつも通りの三枚目な表情でへらりと笑った。
そして飲み終わった二人分のカップを受け取り、洗い場へと行く。その背中が早く帰りなさい、と言っているような気がしてドミトリアスは大人しくノブに手を回した。
最後の名残とばかりに、扉を閉める一歩手前で振り向けばこちらを見ているロイと目が合った。
「な、に……?」
「教頭の所、ちゃんと行くんですよ」
「……………」
カーッと顔が火照るのがわかった。
いつまでも欲求不満な顔をした自分と、既に気分を切り替えたロイ。
その違いをまざまざと知らされた瞬間だった。
「わかってる!」
恥ずかしさを誤魔化すようにドアを叩きつける。
その後ろ姿を見送ったあと、机に寄りかかったロイがフーッとため息を付いた。
「鈍感なのも時に罪ですね」
盛大に閉められたドアに苦笑を投げかけ、ずり落ちかけた眼鏡を人差し指で押し上げる。
最終兵器の意味をあの人が知るのはいつだろう。
そんなことを思いながら、再びコーヒーカップに手を伸ばした。
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