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『総受けの神髄』
「それはお前が悪いだろ」
無下もなく答える婚約者に、ドミトリアスはその場に突っ伏した。
物理準備室はそこかしこが山積みの本や資料で占められ、かつがつ机周りにいくらかスペースがあるという状態だ。
当然突っ伏したドミトリアスはその瞬間本の山の中にあっけなく身を隠したが、その僅かなスペースを巧く利用して優雅に足を組んでイスに座るのは、物理教師でありながらもドミトリアスの現婚約者でもあるグラーシカ。
女性でありながらも、この聖女神学院で特に問題もなくやっていけるのは彼女の持ち前の性格からか。
容姿は極めて美形。その笑顔を拝むことができるのなら死んでも良いと言い切る生徒が後を絶たないくらいだ。
ある意味サルベーンと匹敵するだろうが、それを言うと本人がすこぶるイヤそうな顔をするのであえて誰も口にしない。
だがその容姿とは裏腹に、性格は全く女性らしくない。むしろ男の中の男と言った方が良いかもしれない。
なにせ、授業中に態度の悪さを理由に廊下に出された人間はこれまで数知れず。その上彼女のチョーク投げの餌食になった生徒は今でも後を絶たないのだ。
だがそんな彼女でも生徒に嫌われることなく、それどころか親衛隊などという組織ができているのも事実で。
学食に昼を食べに行く彼女のあとを、ゾロゾロと数名の生徒が付いて歩くのをよく目にする。
また物理教師であるにも関わらず、常に白衣を着用し、またそれが生徒にひどく受けている。ストイックなところがたまらないそうだ。
その彼女が薄茶の瞳を面白そうに笑ませながら、数滴のブランデーを混ぜた紅茶カップを傾けた。
「よく考えて見ろ。元はと言えばお前が思わせぶりな態度を取るのが悪いんだろ」
「俺のどこが思わせぶりだって言うんです」
「それがわからないなら余計悪い」
クスクスと笑う婚約者を見て、ドミトリアスは肩をすくめた。
どうもあまり婚約者同士というやり取りがされない自分たちは一体なにが悪いのだろうと、こんな会話をする度に思う。
普通なら仮にも婚約者が生徒から果ては教師に押し倒されそうになったと言えば、嘘でも心配してくれるだろう。
なのにいつ相談しても、今のようにカラカラと笑われて終わりである。
いい加減、ドミトリアスも自分たちの愛の行方が心配になって来てしまう。
ゴホン、と一つ咳をした。
なんだ、という顔をしたグラーシカが呆れたようにこちらを指さし、
「いい加減立ったらどうだ。言っとくが、そのあたりはこの間までゴキブリの死骸が放置されてたぞ」
「……………ッ!!」
慌てて立ち上がれば、再び肩を震わせ笑われる。
彼女にとって、自分は一体どういう存在なんだろう。
そう思うと、自然言葉が口をついて出た。
「俺達、一応婚約者同士ですよ。なんとも思わないんですか?」
「なにがだ?」
「………なんでもありません」
いつもこうだ。
天然なのか、はたまたわざとか。
こちらが真剣な問いかけをしても、グラーシカは滅多に噛み合った答えを返してこない。
婚約の話を持ちかけたときもそうだった。
教育委員会の会長を母に持つ彼女を妻にしようと思ったのは、たしかに自分が理事長になったときの後援者として彼女の母の援助がどうしても必要だったからだ。
だが彼女と初めて顔を合わせ何度か話をしていくうちに、次第に彼女自身にも惹かれはじめた。
そしてついに婚約して欲しいと仄めかした台詞を吐いたとき。
彼女は悪びれない、まっすぐな眼差しを向けたまま言ってのけた。
「嫁に欲しいのならこの際ハッキリと本人に言ってみたらどうだ」
ずっこけるという動きを、ドミトリアスはこの時初めて体験した。
だがすぐさま態勢を持ち直し、ゴホンと一つ咳をしながらも額浮かんだ汗をさりげなく拭ってから悪意のない薄茶の瞳を見返した。
「ですから今、言ったところです」
「なにを言ってるんだ、お前は」
「もっとハッキリ言った方が良いというなら……あなたに婚約を申し込んでるんですよ、グラーシカ先生」
「………私?」
ドミトリアスは頷いた。
内心では、やっと伝わったか、と安堵の息をついていたが。
それからはなかなか婚約を承諾してくれないグラーシカを説得する日々がはじまった。彼女の母親に直接手紙を出したり、なにかあると彼女のいる準備室にまめに顔を出したりと、その努力は自分でもなかなか涙ぐましいモノがあったと思うほどにだ。
そしてようやく彼女からのオッケーサインも出て、めでたく婚約者同士になった自分たちだが。
特に二人の関係に進展があるわけでもなく、婚約を約束して以来グラーシカに言われたことはと言えば、今後はグラーシカと呼ぶように、というなんとも他愛ないことだけ。
甘い睦言も、唇を交わす恋人のキスも全くないと言って良かった。
おかげで日々ドミトリアスは疑心暗鬼に襲われている。
本当に彼女は自分と婚約したという自覚があるのか。たしかに元はと言えば彼女の母親が目当てだったとしても、今は彼女自身のことも愛しているというのに。いや、もしかして近づいた目的を彼女に知られたのでは。
といった具合である。
「はぁ………」
自然と出たため息に、ますます気が重くなったがグラーシカが慰めてくれるわけもなく。
一人うじうじと側に積まれた本の中から一冊を取りだし、手慰みにパラパラと捲っていった。
不意に声を掛けられたのはそんなとき。
「ドーン」
普段は呼ばれない愛称に、弾かれたように顔を上げる。
間近に迫った彼女の顔に息を飲んだ。ゾッとするほど妖艶で美しい笑顔がまつげの数まで数えられそうなぐらい近くにある。
「な…んですか」
「そう拗ねるな」
笑いを含んだ声がしたと思ったら、ガブッと鼻先を軽く噛みつかれた。
「……痛ッ」
「お前のことが嫌いなわけじゃない」
むしろ好きだぞ、と目の前で笑う薄茶の瞳が悪戯っぽく細められる。
なんと答えて良いのかわからず答えに窮していたところで、だが突如両腕を頭の上でひとまとめに握られる。なんだ、と思ったときには体重を掛けられあっという間に二人して床へと倒れ込んでいた。
「すっ、すみません!」
なにが悪いというわけではなく、反射的に謝ってしまったドミトリアス。
だがその隙にグラーシカはいそいそとどこから取り出したのか、ビニール紐で握り込んだドミトリアスの両腕を素早く結んでしまう。
え、と目を見開いたところで、自分の身体に馬乗りになった状態で満足げに笑んでいるグラーシカを見て血の気が引いた。
どうしてかはわからず、ただ本能的にこの状況が非常にまずいことを悟ったのだ。
「あ、の…これは一体……」
「好きだから押し倒したいと思うのは世の常だろ」
「それは…男から女に対する感情だと思うんですが……」
「私はそういった差別は好きじゃない」
「いえ、これは差別とかの問題でなく……あの、どいてくれませんか?」
「嫌だ」
「嫌だって………」
これは一体どういう状況なのだろう。
巧く働かない脳でドミトリアスは必死に考える。
元々恋人らしい仕草をしなかったグラーシカが、ここにきていきなりの変貌を遂げた。
それは極めて珍しい…というよりも、こんな日が来るとは思ってもみなかった。それも、立場として自分と彼女は全く逆の状態にあるのだ。ハッキリ言って、望んだ世界とはいえ位置が違うと受ける感情が全く違う。
これが普通の男女の正位置ならば自分は喜んでグラーシカを抱いていただろう。
だが逆の位置なら、これから自分がされることというと……
「ずっとこうしたかった。お前を押し倒して、キスして、私のものに…」
言う間も器用な指先がするすると首筋を駆け上がり、たどり着いた耳元を軽く愛撫しはじめた。
細い華奢な指が弄ぶように耳たぶを撫でる。
それが妙にもどかしくて、ドミトリアスは顔を真っ赤にした。だがこれは感じているのではなく、女に組み伏せられている自分自身に対しての恥ずかしさによるものだが。
「や、やめてくれ…グラーシカ…話し合いをしよう……」
「身体に聞いた方が早い」
「どこでそんな言葉を覚えて……ンぅ!」
既に口調すら危ういドミトリアスが、声をあげたところでその隙間に舌が潜り込んできた。
とんでもないことだ。
今の今まで、それこそ婚約してもう数ヶ月が経とうとしているのに全く肉体的交わりがなかった自分達の第一接触がディープキスとは。
いや、だからといって決して嫌というわけではないが。やはり色々と複雑な気持ちがあるのは男として仕方のないことだろう。
自分が組み伏せられているという現状。主導権を握られている屈辱。そして……
「ん…ぅ、ぁ……」
思った以上にテクニックのあるグラーシカの舌術に対する不信感。
一体どこでそんな技術を会得してきたのか。もしかして自分より以前に誰かとつき合っていたのだろうか。様々な疑問が頭をよぎった。
だが既に与えられる快楽でクラクラしはじめた頭はそれ以上の思考をやめてしまったのか、深く考えようとした矢先に痺れるような感覚に意識を奪われてしまう。
「…ふ、あ……グラ…」
「……………」
黙ってろ、と言うように下唇を甘く噛みつかれ、うっと声が出た。
だがそれからしばらくの間、ゆるゆると舌を吸われいくらかの刺激を与えられたところで不意に唇が離れた。
未練もなにも感じられないほど、あっさりと。
「な、に……?」
「わかっただろ。抵抗しない、お前が悪い」
上半身を起こしグイッと唇を拭いながら勝ち誇ったように言うグラーシカは、ほら、と優しく手をさしのべてきた。
何が起こったのかわからないまま、ひとまずその手を握り返せば一息に引っ張られ背中に感じていた床の感触が遠のいた。
「嫌なら嫌で、それらしい態度を取らないと相手はますますエスカレートする。そのぐらいのこともわからないか」
「………すみません」
「わかればよろしい」
まるで小さな子供に教え込むかのように、懇切丁寧に説明してくるグラーシカにドミトリアスは返す言葉もなく思い切り脱力した。
では先ほどのキスは…初めての恋人同士のキスは鈍感な自分に対する戒めだったのだろうか。
彼女の気遣いは嬉しいが、だからといって大切な儀式をそんなことにつかって欲しくはなかった。たとえ乙女チックと言われようと、自分としてもそれなりにムードのある中でのキスを夢見ていたというのに。
「……っと、もうすぐ授業だな」
だがこちらの雰囲気など全く察しもしない婚約者は、壁に掛けられた時計を見て慌てて立ち上がる。机の上に山積みになったファイルから必要なものをすぐさま取り出し、ドミトリアスを放ったままドアへと近づくが、
「授業はないのか?」
思い出したように背後を振り返り、いつまでも床の上に座り込んだドミトリアスを不審そうに眺めて言う。
その声に、本格的にドミトリアスはため息を付いた。
「ありますよ。あなたの弟さんの教室です」
「そうか。くれぐれも押し倒されないようにな」
笑いを堪えた声でアドバイスをするグラーシカが、じゃあ、とばかりにドアの奥に消える。
途端、廊下から響いてきた大爆笑にドミトリアスは再びめまいを覚えた。
「………人間不信になりそうだ」
絞り出すように出した声は、だが容赦なく鳴ったチャイムの音にかき消される。
ボーっとそれに耳を傾けていたドミトリアスだが、
「やべっ……!」
自分も授業だということにはたと気がつき、慌てて立ち上がる。と同時に、近くにあった本の山を一つけっ飛ばしてしまい、見事な雪崩が起きた。
「あぁぁ〜!」
忙しいときに限って、である。
結果、ドミトリアスが崩れた山を元通りにしたときには、既に授業がはじまって二十分が過ぎていた。
完璧な遅刻だった。
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