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『身内陥落法』
進学校として有名な聖女神学院だが、他にも有名なものとして演劇が挙げられる。
美術担当のフィエルスを顧問に据える演劇部は、毎年大がかりな小道具や秀麗なセット、 そしてそれに伴う生徒達の実力によりコンクールに出場すれば間違いなく上位入賞を果たす県下屈指の演劇校でもあった。
その演劇科。
クラスは一つで名前は百合組。
英語表記のクラスが連なる中、漢字表記の演劇科はそれだけでかなりの異質を放っていた。
普段他のクラスの生徒とも特に接触がないため、仕方がないと言えば仕方がないが。
とにかくその演劇科での授業が既に時間としてははじまっているはずなのに、当のドミトリアスはと言うとやっと教室のある階にたどり着いたところだった。
「はぁ…はぁ……」
肩で息をしながら、ようやく教室のドアに手を掛けて開けてみたが、
「………あれ…」
「遅いですよ、先生」
出迎えた生徒はただ一人。
あとの席はどれも全て無人の状態で、それこそ『閑古鳥が鳴く』という少々意味の違う文章すら頭に浮かんだほどである。
「他の生徒はどうした」
唯一の生徒、イーダルに問いかけた。返ってきたのはなんとも言えない苦笑と、肩をすくめる仕草。
「授業開始から30分経ったんで、みんなそれぞれ好きなところに行きました」
「……なんだと」
「そういう決まりなんですよ。知りませんでした?」
初めて聞く規則にドミトリアスは慎重に頷くが、対するイーダルは軽く片眉を上げただけにとどまった。
つまりは授業がはじまって30分以内に教師がいないと自動的に休講になってしまうというのだ。初めて聞く規則に当然ドミトリアスは、嘘だろ、とばかりに天井を仰ぎ見た。
「せっかく来たのに……」
抱えてきた出席簿を教卓に置き、その場にしゃがみ込む。
今日はどうしてもやっておきたい小テストがあったのだ。それに一度授業を休むとその分を取り戻すのはどうしても難しい。たとえ慌てて進めても決して生徒の頭に授業内容が残るとは限らないのだ。
落ち込むドミトリアスが深くため息を付けば、ポンッと軽く肩を叩かれた。
顔を上げればサラサラのロン毛金髪も眩しいイーダルが微笑みながら隣に座ってくる。
「まぁ、そう落ち込まないで。僕がいただけマシだと思って下さいよ」
「そうだなぁ……」
その笑顔につられ、うっすらと笑ったところでイーダルが小さく鼻を鳴らす。
あれ、とばかりに数度鼻をクンクンと動かし一言。
「義兄上、もしかして姉上の所に行かれてました?」
未だ耳慣れない言葉に、ドミトリアスは苦笑しながらも頷く。
職場婚約ということで丸く収まった自分たちだが、彼女の弟はまだ現役の高校生だ。その彼に義兄と呼ばれるのもなにやら複雑な気分で、おまけに仮にも義弟とはいえそれ以前に一生徒としての彼にはどう接して良いのか未だに悩んでしまう。
軽い口調で二人の事を話したが最後、次の日には学校中に噂が広まっているということが無いとも言えないのだ。
だからあまりこの手の話題には触れてほしくなく、ゴホンとひとつ咳をしたところで話題を変えた。
「そういえば、新しい劇での配役が決まったそうだが」
どうだ調子は、と聞くドミトリアスに満面の笑みを浮かべイーダルが口を開く。
なんと言っても我が校はじまって以来の演技者で、既にその世界の人間からの覚えもめでたい彼は、これまでに何度もコンクールに出場しては主演男優賞、果ては主演女優賞を総なめにしているのだ。
というのも、高校生とは言えまだ骨格が未発達な彼は未だに女装もお手の物で、むしろ女性役を本人も喜んでしているという噂もある。
その彼が女装もできるようにと伸ばしている髪をサラリと背中に流し、あどけない瞳を未来の兄に投げかけた。
「それなんですけど……」
次いで膝の上に置かれたドミトリアスの手を取り、ギュッと握りしめる。
男のものとは思えない柔らかな手の感触に、ドミトリアスが不覚にもドキッとしたところで桜色の唇が言葉を続けた。
「練習台になってもらえませんか?」
「練習台?」
「ええ、今度の役は少し複雑で……できれば時間がある限り練習を多く重ねておきたいんです」
真摯な瞳。
断るにはあまりに勇気が必要だった。
「そうは言っても…生憎と俺は演劇には全く疎くて……」
「大丈夫ですよ」
クスッと笑ったイーダルが再び髪をかき上げ、スッと手を伸ばして頬を撫でた。
「目をつむってじっとしていれば良いですから」
「それだけで良いのか?」
「ええ、今回は僕以外の役はあまり立ち振る舞いがないんです。だから余計難しいんですけど」
頬を撫でられたことでドキドキと動悸が激しい胸をなんとか抑え、ドミトリアスは頷いた。
そのぐらいなら自分でもできる。
将来も明るい未来の演劇者の手助けができるのなら、それはそれで良いことだろう。そしてなにより、グラーシカの身内を自分側につける必要があった。
「じゃあ…えっと、あの机に寝てもらえますか」
彼が指さしたのは教室の隅に置かれた長机。
となると、さしずめ自分の役割は眠り続けるお姫様といったところか。
言われるままに寝そべり天井を見上げるドミトリアスだが、突然間近に迫ったイーダルの顔に慌てて上半身を起こす。
「ちょ、なにするつもりだ?」
「練習ですよ。さっきもそう言いましたけど」
訝しげに首を傾けるイーダルに、自分の早とちりかと幾分頬を赤く染めながらドミトリアスが再び机に横になる。
背中に当たる板が冷たくて少し顔をしかめたが、可愛い義弟への協力だと思えばなんのその。ギュッと目をつむり、少しでもイーダルが演技しやすいよう呼吸をも控えたところで……
「んぅ…ッ…な、ぁ……!?」
唇に触れた感触に本能的に両腕を突き出していた。
すぐさま、痛い、という声があがりそれがイーダルのものだとわかったところでドミトリアスはわなわなと握った拳を震わせた。
「どっ…どういうつもりだ!」
この際可愛い義弟だの、味方に引き込むなどという考えはどうでも良い。
なにが悲しくて婚約者の身内から口付けされなくてはならないのかと、ドミトリアスの頭の中はそのことで一杯だった。
だが目の前のイーダルはと言うと、突き飛ばされた勢いで床へとしゃがみ込んだ状態で打った腰を痛そうにさすっている。その顔に反省という文字は全く見られない。
「まったく、そうやってすぐ暴力に訴えるところは感心しませんね」
「感心って……お前、自分がしたことの意味がわかってるのか?」
あわあわと戸惑いつつも問いかけるドミトリアスにイーダルがクスッと笑う。
小悪魔的なその表情に、一瞬どきりとしたのはいわゆる野生の勘というやつかもしれない。
「おい……」
「良いんですか?」
声を掛けたところで微笑んだイーダルが前髪をかき上げながら意味ありげな視線を投げかけてきた。
やたらと自信に満ちた、この場に不釣り合いなほどの余裕。
「母上が僕の情報を頼りにしてるって、知らないわけじゃないですよね」
「………………」
そうだった。
思い当たる事実にドミトリアスは愕然とする。
グラーシカとイーダルの母は教育委員会会長だ。その彼女が学校内の二人の出来事を逐一イーダルに伺わせているという話は有名だった。
つまりは自分の義母への印象はイーダルの肩に掛かってると言っても良かった。
その彼が、だがそのことを盾に自分に迫ってきたとしたら。
自分はどうすればいいのだろう。
この場を巧く回避するには彼の言うとおり黙って押し倒されていたらいいのだろうか。だが事が露見したら自分は間違いなくグラーシカとの婚約は破棄される。いや、もしかしたら教職免許すら剥奪されるかもしれない。
婚約者の弟でありながらも教育委員会会長の諜報員。
とんでもない立場の義弟にどう対応して良いのかわからない。どうあっても自分に不利なのは変わらないだろう、と思うのだが。
気が遠くなりかけた身体を鼓舞して、ドミトリアスは思い切って長机から降りて床にへばったイーダルへと近づいた。
なんです、とばかりに余裕の笑みを浮かべたイーダルを見下ろし、意を決して唇を開く。
「キスで良いか」
ドミトリアスの言葉に、イーダルが目を見開いた。
まさかこの体裁を気にする義弟がこのような申し出をするとは思いもしなかったのだろう。
だがそこは順応性の高いイーダル。
にやり、と笑い唇を一舐めしたところで右手を差し伸べた。掴んだ左手をグイッと引きながら、唇に妖しい笑みを浮かべる。
「そう簡単に僕が落とせるとは思わない方が身のためですよ」
「……………」
大人しく腕を引かれたドミトリアスが、黙って目前の唇にキスをする。
最初は触れるだけ。
次にうっすらと開かれた隙間から舌を入れて、軽く絡めた。
「ふふ…この唇で何度姉上としたんです?」
キスの合間に笑いながら言ってくるイーダルを、うるさいとばかりに抱きしめる。
折れそうなほど華奢な身体に驚きつつも、だが構わずキスに専念した。
小さな舌が反応してくる。チロチロと先端で口腔内をくすぐるように撫でれば、くすぐったそうに肩を震わせるイーダルの振動が身体越しに伝わった。
「…あぁ……義兄上の匂いだ…」
息継ぎのために唇を僅かに離せば、うっとりとしたような声が耳近くで聞こえる。
その声にギョッとする。
どういうことだろう。彼は…イーダルは自分に嫌がらせのためにキスを強要したのではないのか。
鈍感なドミトリアスらしい疑問がここまで来ると泣けてくる。
とはいえ、予想もしなかった義弟の反応に驚き、真偽を確かめようとイーダルの顔を覗き込もうとやや顔を遠のけたドミトリアスだが、
「い、や……」
背後に伸びたイーダルの手に頭を掴まれ、強引に再び口づけされた。
こうなると、どっちがどっちをキスしているのかわからない状態だ。だが一応下に組み伏せている形になっているイーダルはというと、
「ん、ぁ…あ、に……うえ…」
かなりできあがっていた。
ある意味ドミトリアスが食われていると言っても過言でない。
それからどのくらいの時間が経ったのか。
いい加減唇が痺れてきたドミトリアスが、ためしにイーダルの肩を押しやると意外とあっさり離れてくれた。
見れば目の周りをとろりと上気させた、なんとも言い難い表情である。
「あ〜…っと……」
さすがのドミトリアスもなんと声を掛けて良いのかわからない。
だが当のイーダルはと言うと、ぼんやりと窓の外を眺めていた視線をドミトリアスに向けた途端ふわりと笑いかけ、
「合格」
肩をすくめて見せた。
負けた、ということだろうか。
そうと決まれば長居は無用。ドミトリアスは教卓に置いた出席簿を素早く手に取り、足早に教室をあとにした。
残った教室ではイーダルが一人床にしゃがみ、天井を見上げてからため息を付く。
「本当は『義兄上』なんて呼びたくないって言ったら、どんな顔するかな」
叶わない想い。
彼は姉の婚約者なのだ。
深くついたため息は、広い教室でやけに大きく響いた。
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