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『一枚の絵画』
もし良かったら、などと言っていたが。
ドミトリアスは知っていた。
彼がそう言うときに限って暗に「絶対来い」と言っていることを。
午後も最後の授業になり、数少ない空き時間を使ってまで彼に会いに行くのは正直億劫だったが、ここで約束をすっぽかして後々ネチネチと嫌みを言われるよりはずっといい。
辿り着いた「美術室」の札が掛かったドアを前に、大きく一つ深呼吸する。
「失礼します」
一歩教室に足を踏み入れると、プン…と独特な絵の具の匂いが鼻を突いた。
だが思っていた人の姿はなく、美術室はシンと静まり返っている。
「おかしいな……」
美術担当のシャイハンは、滅多なことがない限り美術室を動かないことで有名だ。
朝夕の職員会議にも出席しない徹底ぶりで、それゆえに毎日のように教頭をはじめとする上層部の連中からチクチクと言われているが本人は至って気にしていない。
その彼が美術室にいないとなると、考えられる行き先はかなり限られている。
準備室だろうか、と視線を巡らしたあとで、ドミトリアスが美術室の奥に設置された四畳半の狭い美術準備室を思い出して足を運ぶ。
イーゼルや過去の作品が保存された部屋は基本的にはシャイハン以外は立入禁止で、そのため中で何がされているのかが生徒達の興味の対象になっていた。
ノブを回してみれば鍵は開いている。
「あの……」
失礼とは思ったが、ノックはせずに声を掛けたと同時にドアを開けた。
シャイハンがいないと思い込んでいたのが原因だが、次いで目にした光景にドミトリアスは心底後悔することになる。
「うっ…わ……!」
彼が見たもの。それは……
「せ、んせぇ……ぁ、ん…」
「あぁほら、そう締め付けないで……ん?」
雑多な部屋の中、埋もれてしまいそうな机に腹這いになった生徒と、その生徒にのし掛かったシャイハンその人だった。
しかも運の悪いことに、部屋に入った途端そのシャイハンと目が合った。
怪訝そうな顔をした彼が口を開く前に、だがドミトリアスは90度の礼をして脱兎の如く走り去っていた。
「す、すみませんっ!」
どもりがちな挨拶は聞いてもらえたのか。
それを確認することもなく、ドミトリアスは再び美術室へと舞い戻り、出口に近いイスに腰を下ろした。
ドキドキと激しい胸を押さえつけ、今見た光景をなんとか振り払おうとするが、
「う、そだろ……」
あまりに生々しい、それでいて妙に納得してしまう光景に顔が赤面するのを抑えられない。
それどころか、忘れようと思えば思うほど細部まで思い出してしまうのでどうしようもない。自分のタイミングの悪さを呪った。
「ドミトリアス先生」
背後から掛けられた声に、反射的にビクッと身体を震わせた。恐る恐る肩越しに振り返れば、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべたシャイハンが目の前。
今の今まで情事に戯れ、あまつさえその現場を同僚に見られたという同様は全く見られない様子である。
拍子抜け、と言ったところか。
だがさすがに目を合わせることに抵抗を感じるドミトリアスが、床の一点をじっと凝視していると頭上から笑いを含んだ声が降りてきた。
「見苦しいところをお見せしてしまいましたね」
「い、いえ……」
「この時間に来るとわかっていたらもう少し早めに切り上げたんですが」
「………………」
誰も隠すなとは言わないが、こうもあからさまに宣言されるとこちらとしても言うべき言葉が見つからない。
だがさすがに、そうですか、とも答えられず俯いていると、
「具合でも悪いんですか?」
スッと伸びてきた掌が額を触った。
突然のことに、ドミトリアスは全身が総毛立つほど驚き、その拍子にイスから転げ落ちた。
「………痛っ」
「大丈夫ですか?らしくないですね」
クスクスと笑いながら手を差し伸べてくるシャイハンをじっと見つめ、そりゃあんな場面を見せられたら、と言いたくなる唇をギュッと引き締めた。
そしていつまでも目の前にある掌に掴まる。
グイッと引き上げてもらったところで対等に並んだ相手を凝視した。こちらの眉根が少しばかり寄っているのは不機嫌だからだろう。だが今更隠す気はなかった。
「いつもあんなことを?」
「あんな……ああ、あれですか」
クスクスと笑うシャイハンに、なにがおかしいんだ、と詰め寄りたいのをグッと我慢する。
だが当の本人は後ろめたさの欠片もなく、親指の腹部分でゆっくりと唇をなぞり一言。
「大したことじゃないですよ」
その言葉を聞いた瞬間、拳を握った。無意識の動作だ。
渇きかけた喉を鳴らして唾を呑む。
「……なにを言ってるんですか」
「ふふ…怖いですね。そんなあなたも素敵ですけど、やはり笑顔の方が……」
「なにを言ってるのかと聞いてる!」
じっとりと握った拳に汗が浮かぶ。
笑っていたシャイハンの表情が一瞬止まり、だがすぐさままた深い笑みを浮かべた。
困りましたね、というように肩をすくめて両腕を組む。
「どなる姿はいただけませんね。美しく……ッ!」
言い終わる前に、ドミトリアスの平手がシャイハンの左頬を打っていた。
一瞬驚愕に目を見開いたシャイハンが、だがすぐさま目の前の男を見返す。
打たれた頬を撫でることもなく、冷めた目で見据えていた。
拳じゃないだけありがたいと思え、そう言いたいのを我慢しながらドミトリアスはその瞳を真っ向から受け、口を開く。
声が震えているのは怒りからだ。
「あなたは教師です。生徒の模範となるべき存在でしょう?」
「……った…ね」
「それがこんなことで…何を考えてるんですか」
「よくも…よくもぶったわね!」
「……は?あの、シャイハン先生……?」
突然血走った目で詰め寄ってきたシャイハンに、ドミトリアスは思わず後ずさる。
なんで自分が問いつめられなきゃいけないんだ、と頭では思っていても、こんな状態のシャイハンを前にしてはそんなことも言えるはずがなく。
「お、落ち着いて下さい……」
おどおどと、それまでの怒りはどこへやったのか、怒り狂うシャイハンを宥めることに専念しなくてはいけなかった。
だがそのシャイハンはと言うと、
「私の…私の美しい顔に……なんてこと、ぶたれたわ…親にも叩かれたことがないのに……」
ほぼ錯乱状態と言っていい。
だが虚ろな瞳に再び光が蘇ったと同時に、ドミトリアスは力強い腕に肩を掴まれそのまま背後の壁へと押さえつけられた。
ほぼ投げつけられたと言った方が無難かもしれないが。
とにかくバンッとすごい音がした。背中に当たったコンクリートの感触に顔をしかめれば、目の前に現れたシャイハンが口端のみを歪める独特な笑みで迫る。
うっすらとその左頬が赤いことに、今更ながら自分のとった行動に後悔した。
「な〜んてことしてくれるのよ」
ピシピシと掌で軽く頬を叩かれる。
彼がいつの間にかお姉言葉になっているという些細なことは、この際どうでも良かった。
静かな怒りとその迫力に、不覚にも言葉が続けられない自分をドミトリアスはなんとか鼓舞するが、目の前でシャイハンに冷笑一つされただけでその気持ちは一気に萎縮してしまうのだ。
「いや、あの…ですね……」
にやり、とシャイハンが笑う。
ゾッと背中をかけ去ったのはいわゆる悪寒というやつだろう。
だが逃げだそうにも背後は壁。両サイドはシャイハンの腕があって、どうあっても逃げられそうにない。
どうしたもんかと視線を巡らしたところで、視線の先に無理矢理笑顔のシャイハンが入ってきた。
「ぇ……」
「お仕置き、しないとね」
「……は?」
わけがわからないまま、腕を取られる。前髪をかきあげられ、露わになった額にチュッとキスされた。
サーッと血の気が引く音を聞いたのはそのとき。
「うっ…わ!なに、なにしてるんですか!」
「ダメですよ。こういうときは大人しくしてもらわないと」
暴れようとすれば、すぐさま伸びてきた手が動きを封じる。
その華奢な身体のどこに、というような力でぐいぐいと抱き寄せられた。
耳元にフッと息を吹きかけられれば、再びぞわわ…と背筋を寒気が走り抜けた。助けてくれ、と悲痛の眼差しを向けたところで楽しくて仕方がないといった感じのシャイハンと目が合う。
「そんな顔してもダメですよ。私の顔に傷つけた代償は高くつきますからね」
「あ、謝ります!謝りますから!」
「ドミトリアス先生」
ゾッとするほど冷たい声が耳のすぐ近くであがった。
身体が強張ったのは無意識か、はたまた本能か。
「謝って済むなら警察はいらないんですよ」
静かに言い終わると同時にチュッと耳にキスをされ、ついでとばかりに頭を撫でられた。
こうなると既にどちらが悪いのかわからない。
元はと言えば、彼が生徒と情事を交わしていたことを注意したのが始まりだが。今となってはそのことを注意した自分が逆に説教されている。いや、説教と言うよりこれは虐められていると言った方が正しいだろうか。
意味不明な考えをグルグルと思案させるドミトリアスをどう思ったのか、シャイハンが今度はこめかみにキスしてくる。案外キス魔なのかもしれない。
だが何度もキスをされることで多少免疫がついたのか、覆い被さってくるシャイハンの背中を数度叩き、
「でも…あの、シャイハン先生?ここ、一応学校ですから……」
こういうことは控えましょう、と進言してみたところがドミトリアスらしいと言うか。
当然、今更なにを言い出すんだとばかりに非難めいた視線を受けた。そして……
「わっ…ちょ、せん…ぅ……」
更なるキス攻撃をくらったのは言うまでもない。
チュッチュッと数えるのも面倒なほどのキスの嵐。
いい加減抵抗することも諦めたドミトリアスだが、不意に身体を押しつける力が遠のいたところで目を開くと満面の笑みのシャイハンが目の前。
「あ、の……」
「今日はこれで許してあげますよ」
「は…はぁ……」
「足りませんでした?」
「い、いえ!」
呆けた返事を返せば、悪戯っぽい瞳がゆるりと笑んだ。唇を舐める舌が妖しく誘う。
慌てて両手を顔の前でブンブンと振り回せば、傷つきますね、と苦笑気味の笑顔と目が合った。
タイミング良くチャイムが鳴る。
弾かれたように廊下へと飛び出し、だが思い出したように振り返ったドミトリアスがビシッとシャイハンに向けて指を指す。
「今日の件はまた今度改めて話し合いましょう!」
「はいはい」
「約束ですよ!」
言ってる側から既に逃げ腰なところが面白い。
笑いを堪えながら、ドアから身体半分を隠して吠えるドミトリアスに笑い掛けた。
それをどう受け取ったのか、悔しそうな顔で一瞬押し黙ったドミトリアスが、それじゃあ、と身を翻す。
パタパタと遠のく足音に耳を傾け、シャイハンが小さくため息を付いた。
「あの真面目さが良いときもありますけどね」
たまには乱れて下さってもいいのに、と拗ねたように言うが腕を組んで部屋の隅に置かれたイーゼルに歩み寄る。掛かった布を取りのぞいた。
現れた一枚の絵を満足そうに眺め、傍らの絵筆を取り上げた。
「でもまぁ……」
筆に乗せた色はピンクに近い赤。それに白を混ぜ、なんとも表現しがたい色合いの朱を作る。
「これでこの絵も完成、と」
キャンバスの片隅、ひっそりと描かれた人物の唇にその色を落とす。
見る見る生気を宿したそれに満足げな笑みを見せ、シャイハンは筆を置いた。
本当は本人にも見せてあげたかったが、生憎と逃げられてしまった。まぁ、そうせざるを得ない状況を作ったのは自分だから仕方がないが。
唇に残った感触をもう一度指先で確かめ、目を閉じる。
瞼の裏に思い描くのは、怯えた瞳を一杯に見開いた赤毛の君。
「ふふ………」
小さく笑った。
いつまでも、笑っていた。
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