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『失恋論と恋愛論』
「あ〜……」
中庭の芝生に寝そべり、大きく伸びをした。
今日一日本当にロクなことがない。今日は一体何度押し倒され、唇を奪われたのか考えただけでも憂鬱だ。
おまけに放課後には教頭の所にいかなくてはいけない。
今この瞬間に死ねたらどれだけ幸せだろう、と殺伐とした考えが頭を支配していた。
「死のう……かなぁ…」
呟くともなしに呟いた。
途端、近くの茂みがガサガサと揺れる。なんだ、と思い上半身を起こしてみれば同時に飛び出してきた人影に反射的に後ずさった。
「早まるなッ!」
猛然ダッシュといった様子で現れたのは体育教師のヒカイ。
その昔はやくざの幹部だっただの、単なる刺青好きなオヤジなどと、これまた噂が絶えない彼は噂の原因ともなる刺青を体中に彫った男として校内に知らない人はいない。
体型としてはずんぐりむっくり。美形揃いの教師の中では多少異色を放つキャラだ。
その彼が、上下三本ラインの入ったジャージをご丁寧に足首のジッパーまでキッチリ締めて突進してきたのだから驚かない方がおかしい。
「うっ…わ……!」
効果音が聞こえてきそうなほどの勢いでドミトリアスを押し倒し、勢い余ってゴロゴロと二人して芝生の上を何度か転がる。
端から見るとまるで漫才だ。
「お、おも……」
「命あっての物種という言葉もある!だが死んではなにもならんぞ!」
やっと動きが止まったところで今度はヒカイの説教。
おまけに自分が下、彼が上という状態なだけにドミトリアスは窒息寸前だった。
「なにが原因だ!失恋か?失恋なんだな!」
「ぐ…ふ……」
「失恋がなんだ!自慢じゃないが私なんかは年中失恋だ!」
「が……ひ…」
熱演するヒカイには申し訳ないが、ドミトリアスにはこの時既にあの世に一歩足を突っ込み掛けていた。
だが朦朧とする頭で考えることといえば、婚約者のことでも肉親のことでもなく、ヒカイの片思いの噂だというのだから泣けてくる。
たしか相手は用務員のエディアルドだったか。無表情の美貌をひっさげた彼を一目見た途端ヒカイが恋に落ちたというのは有名な話だ。
いつもは竹刀を片手に正門前の登校生徒をチェックしている彼が、初登校した彼を目にした瞬間竹刀を取り落とし、慌てて取り上げたところで突然素振りを始めたというのは今でも生徒の間で笑い話としてよく話されている。
だがそのエディアルドはと言うと、既に意中の人がいるらしくヒカイのことなど全く目に入っていないのだからヒカイへの同情票は日々鰻登りだ。
そんなことをぼんやりと考えながら、遠のく意識の中でドミトリアスは最後の最後までそんなことを思い出している自分に泣きたくなった。だが泣こうにも泣くという意識すら薄れつつある。
あぁ、良い人生だったな……などとおざなりの文句を頭の中で思い返したところで、だが急に胸にのし掛かった体重が消え去った。
「げほっ…がっ……」
おかげで空気を欲する喉が一気に酸素を吸い込みすぎて思い切りむせる。
吐き気と目眩が同時に襲いかかって、ドミトリアスはたまらず芝生にうつぶせた。視界が真っ白に染まる。気分は最悪だった。
「おい、大丈夫か?」
おどおどと動揺に染まった声が上から降ってくる。
それに思い切り、あんたが声を掛けるまではね、と答えてやりたいのを止まらない咳に涙しながらなんとか頷いた。
本当なら蹴りの一発でも入れてやりたいが、仮にもヒカイは自分より年上。おまけにこれまで数多くの不良を更生してきたという実績を持つ彼には、どうしても頭が上がらない。
今の過剰なまでの反応も、もしかすると不良更生モードなのかと思うとなにも言えなくなるのだ。
「ド、ドミトリアス先生…?」
さすがにいつまでもむせているドミトリアスに慌てたのか、伸びてきた手がゆっくりと背中をさすった。
幾分呼吸が楽になる。吐き気も収まり、ようやくまともに顔を上げられる頃になると、目の前には心配そうにこちらを見つめるヒカイが動揺を隠しきれない顔で右指をつき出してきた。
「何本に見える?」
「い、一本……」
「ブー。正解は二本……ッ!」
にやりと笑って隠していた左指を見せてきたヒカイを容赦なく蹴った。
再びゴロゴロと芝生を転げたヒカイだが、ほどなくして苦笑を浮かべた様子で戻ってくる。このへこたれない精神が彼がベテラン教師と言われる所以かもしれない。
とはいえ、迎えたドミトリアスは至って不機嫌を露わにした表情でそんな彼を出迎えた。
「それだけの気力があるならもう大丈夫だな」
一人満足そうに言うヒカイに、ドミトリアスの中でなにかが切れた。
掌の下に茂る芝生をブチブチッと手当たり次第むしり、パーッと空に向かって投げる。ヒラヒラと舞った緑色が二人の上に容赦なく振りかぶった。
「…………自然は大切にしないとダメだと習わなかったか」
「誤解で人を殺し掛けたような人に言われたくありません!」
「誤解?どこがだ。お前は……」
「俺は失恋も悲恋も甘甘も経験してませんよ!ましてや死のうだなんて微塵も考えてませんでしたっ!」
「いや、だが…さっき……」
「空耳です!」
ここまで言いきれる自分が気持ちいい。
仮にも年上のヒカイに対して対等の口を利く自分に多少酔いしれながら、だが未だにジンジンと痛む胸と喉を意識して再びむせ返った。
「げほっ…げほげほ……」
「保健室で薬をもらって来よう」
立ち上がったヒカイの裾をギュッと握りしめる。
なんだ、とばかりに振り返ったヒカイにこれでもかと言うほどの睨みを利かせた。
「い、い……」
「良いって…こんな状態でなに言って……」
「あんたが…いなくなってくれたら、それで…」
「…………だが私はこれから人生の師としての恋愛論を語ろうかと…」
「結構です!」
早くどこかに行け、と容赦ない言葉を掛ければ泣きそうな顔をしたヒカイが目の前。
だが刺青を入れたその顔が悲痛に歪んでいるのを見抜けというのは無理な注文だ。
むしろ悲痛と言うよりは不機嫌を露わにしたような顔に見えるので、余計質が悪い。
ドミトリアスの言葉に押し黙ったヒカイだが、今の彼にはなにを言っても仕方がないと思ったのか、
「ではまたこの話は明日にでも……」
「ご遠慮します!」
最後の希望までも断ち切られ、ヒカイはがっくりと肩を落とした。
だがそれを慰める気はドミトリアスには毛頭ない。
とぼとぼとその場をあとにするヒカイの後ろ姿を眺め、ドミトリアスはようやくホッと安堵の息を付いた。
だがすぐさま何気に彼が唯一自分に手を出さなかった人だと気づき、その彼に対してこのような仕打ちをしたことを後悔したが、
「……押し倒された方がましだな」
すぐさま考えを改めて、その場にごろりと寝転がった。
たしかに今日は数多く押し倒されたが、殺され掛けたのは今が初めてだ。
ある意味一番身の危険を感じたと言っても良いかもしれない。
見上げた空は、先ほどと少しも変わりない青空。
なのにどうして自分の身の上に降りかかる災難はこうも大荒れなのかと、流れていく雲を眺めながらドミトリアスはそんなことを考えていた。
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