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『悪趣味な父性』
怒りと羞恥と落胆と。
様々な思いを抱えて歩いていたところで、たまらず今日何度目かのため息をついた。
今日はもうこのまま帰ろう。風呂に入ってビールの一杯でも飲めば気分も晴れるだろう。
ともすればどこまでも墜ちていく気持ちをなんとか鼓舞して、ドミトリアスは足早に職員室へと向かった。
本当ならグラーシカと夕食ぐらいは一緒にしたかったが、さすがに今日ばかりはそんな体力もない。確実に老いていく身体を自覚しながら、おもむろにドミトリアスは腰を叩いた。
「使い過ぎか?」
突然背後から掛けられた声に、慌てて振り返る。
一番最初に飛び込んできたのは大きなお腹。それはまさに「飛び込んできた」と言うに相応しい貫禄のあるビール腹だった。
次いで視線をあげるとにこやかな笑顔と遭遇する。
「そういう冗談は頂けませんね」
「ほ…機嫌が悪いようだな」
おかしそうに腹を揺するのは、事の元凶でもある理事長のマルカーノスだ。
彼がこの下らない理事長世襲制を廃止すればこんな面倒なことにはならなかったものを…と機嫌の悪い今はなにもかもが鬱陶しく感じるのか、普段なら父親としてそれなりに尊敬もできる彼を腹立たしい思いで見つめた。
「別に…寝不足なだけですよ」
「まぁいい。立ち話もなんだ……」
ぶっきらぼうに答えるドミトリアスを物ともせず、理事長はそそくさと理事長室へと向かって歩き出す。
こうなると誰も彼を止められない。
仕方なく彼の三歩あとをついていきながら、ぼんやりとそんな彼の後頭部を見つめて再び深いため息をついた。
その音に気付いて理事長が振り返った。
「どうした?」
「………いつ頃から…いえ、なんでもないです」
「これか?」
押し黙ったドミトリアスの気持ちを察し、いたずらめいた視線で自分の頭部を指さす。
微かに薄くなったそこを認め、またドミトリアスの表情が曇った。対してその表情を確かめて楽しんでいる理事長は、なんだかんだ言って暢気な父親である。
自分の後がまに関して周りが日々右往左往しているという事実を知っているのか、はなはだ疑問だった。
だがその彼も、落ち込んだドミトリアスを少しは心配しているのか。肉太な掌をバンバンと彼の背中に食い込ませながら、どさくさに紛れてその肩を抱く。
「まぁ今のうちから心配しても仕方がないだろう。それに案外禿げるのも良いぞ。朝のセットもいらないし、洗髪は楽だし。」
「………面倒でも髪がある方が良いです」
ますます落ち込むドミトリアスに、どうぞ、と先に理事長室への入室を促す理事長。
座りなさい、とソファーを勧められ思わず先ほどの出来事が蘇り身体を震わせた。
「いえ、結構です」
「どうした?具合でも悪いのか?」
「そういうわけでは…ただ今日はあまり時間がないので」
「ふむ……」
微かに首を傾げた理事長がスッと手を伸ばしてドミトリアスの額を触った。
「顔色が悪いが…熱はなさそうだな」
肉肉しい感触に思わず眉をひそめる。
今はスレンダーな身体を保っているが、自分もいつ彼のようになるかわからない。遺伝とは時に恐ろしいまでにしつこいのだ。
一応食後と寝る前に筋トレをしているが、それもいつまで効果を維持してくれるのか。
ドミトリアスの人生は常に不安だらけだった。
といっても、その不安も半分以上は本人の杞憂によるものだが。
「だからそうだって何度も……ちょ!」
だがそうこう言ってる間に、額を触っていた手とは逆の掌がドミトリアスの下肢に伸びてきた。気がついたときには既にジッパーに手が掛かり、引き下ろす寸前。
慌ててそこを押さえるが、年の功からか、そうはさせじと見た目とは裏腹に素早く動いた理事長の掌がスルリとジッパーの中にあるソレを握りしめた。
「な、なにしてるんですか!」
「まぁまぁ」
だが慌てふためくドミトリアスとは対照的に、理事長は至って冷静に、それどころかそんなドミトリアスの反応に心底楽しんでいる様子だ。
アルゼウスやミューカレウスの悪趣味なところは間違いなくこの人からの遺伝だと、混乱する頭の片隅でドミトリアスはそんなことを考えた。
「疲れたときはこれが一番だぞ」
弾んだ声で、嬉しそうに握ったソレをゆっくりと扱きだす。
「だ、だからって…どこに父親の手で抜かれる息子が……ッ!」
「ほぅ…思ったよりずっと育ってるな。おまけにここもまだフサフサだ」
「…ぅ、く………」
肉太な指に包まれた部分が慣れない感触にビクッと大きく震えた。なんとかその手から逃れようと、身体をよじったところでもつれた足が原因でその場に倒れ込む。膝頭を痛いほど打ち付けて思わず涙が出た。
「っく〜…!」
「ん?大丈夫か?」
「言う…ぐらいなら手、離せ……」
潤んだ瞳で睨み付ければ、だが返ってきたのは相変わらずの笑顔。父性に溢れたその毒気のない笑みについついドミトリアスの力も抜ける。
四つん這いになり、背後から羽交い締めされている状態にも関わらず思わず吹き出した。
「まったく…あなたって人は……」
それなりに勃ち上がっていた前も、今のショックで落ち着いたのか理事長の手の中で大人しく頭を垂れた。
それを確認した掌がそっと離れる。
背中に密着したビール腹もいくらの反動をつけて離れていった。その様子がおかしくて、ドミトリアスが今度は床に転げて笑う。今日一番の大笑いだった。
「あは、あははは…は……」
「そんなにおかしいか?」
傷つくなぁ、と出っ張った腹を揺するもんだから、ますますドミトリアスが笑い転げる。
その笑顔を認め、降ろしたジッパーを元通り直してやりながら理事長がふと顔を上げた。笑みをたたえたままの、優しそうな表情で。
伸ばした手がそっとドミトリアスの髪の毛を撫でる。
「無理しなくて良いぞ」
「……………」
目元を拭いていた手を止め、父親を見返した。なにを言っているのだろう、とその瞳が訴えている。
無理をするな、とは。
まさか先ほどの続きをしろと言われてるんだろうかと、ドミトリアスの顔が再び蒼白になった。だがそれを察した理事長が、違う、とばかりに小さく手を振る。同時に下腹部がブルブルと小刻みに震えた。
「そうじゃなくてだな……あ〜、まぁなんだ。お前もまだ若いんだから他にやりたいこともあるだろう」
「いえ、特には……」
「そうか?わしが若かった頃は色々と……やったもんだが」
「知ってます」
マルカーノスが理事長に就任する以前の話はかなり有名だ。
それこそ『理事長になるためにもより多くの人間の意見を聞かなくてはならない』という名目で、なぜか連日風俗を梯子したり。その結果ドミトリアスやシオンといった予想外の跡継ぎまで出来上がってしまったのは既に周知のことだ。
結局四公の差し止めもあってなんとか風俗通いをやめたが、気がつけば四人もの子供を抱え理事長席争奪戦を繰り広げるまでに至ってしまった。
よくよく考えれば諸悪の根元はマルカーノス自身の下半身だと言えるが、さすがに今となってそれを面と向かって言える人物はいない。
ドミトリアスをはじめとする子供達にとっては良い迷惑だった。
だがその彼が遠回しにとはいえ、無理に理事長になる必要はない、と言ってくる。
それはひどく身勝手なようで、だがその反面父親らしい気持ちが含まれているようで、ドミトリアスは思わず苦笑を浮かべた。
「別に、無理なんてしてませんよ」
好きでしてるんです、と肩をすくめて見せながらドアへと近づいた。
それが、今日はこれまでにしましょう、という合図で。引き留める様子もなく理事長が手をヒラヒラと振った。
「そうそう」
だが今まさにドアから出ようとするドミトリアスを呼び止めるように、ソファーにもたれかかった理事長が独り言とも思える呟きを口にする。
そして、なんだ、とばかりに振り返った息子に一言。
「ハゲは確実に遺伝するぞ」
さすが現理事長。
アクの強い四公を従えてるだけに、一筋縄でいかないところは誰よりも秀でていた。
彼の一言で瞬間的にドミトリアスの顔が引きつったのは言うまでもなく。だが一度閉じかけた扉は止まることもなく、蒼白となった彼の顔をその奥へと送り込んでいた。
それを認め、ソファーに身体を半分以上沈ませた理事長がにやりと微笑む。
「まぁ…隔世遺伝って事もあるがな」
彼の祖父はフサフサだった。
つまり、父親ではなく祖父に似ればひとまずハゲは防げると。
だがそれをあえてドミトリアスに教えてあげないところが理事長らしい。彼も彼なりに息子を弄ぶことに安らぎを覚えているのだろう。
大きく伸びをしたあと、誰もいなくなった理事長室で隠していたお菓子をソファーの下から取り出す。もらったばかりのクッキーだ。
だが口にその一欠片を運ぼうとしたところで、糖尿病を思い出してしぶしぶと元に戻す。
そして息子を思い出して再びクスクスと肩を…いや、腹を震わせた。
「心配するのはハゲだけじゃないぞ」
なんとも悪趣味な父親である。
だがその独り言を聞かなかったドミトリアスは幸せと言うべきか。
その時廊下から聞こえてきた盛大なくしゃみに、理事長は再び腹を抱えて笑った。
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