『月が雲に隠れるときは』 Written by Takumi
長い廊下を歩く。
靴が埋まりそうなほどの柔らかい絨毯が敷かれ、壁には著名な画家達の絵画が惜しげもなく飾られている廊下。
その廊下を、僕の微かな足音だけが響いている。
一瞬どこまでも続いていそうな錯覚に襲われ、僕は歩みを一時止め、疲労で痛む瞼を閉じた。
クリュガー邸は常に人を受けつけない雰囲気を持っている。
それは子供の頃から感じ続けていたことで、大人になった今も、それは少しも変わらない。
それは当主の持つ雰囲気をそのまま表しているせいなのか。
原因は分からない。
しばらくして、僕は再び歩みを進める。
手にしたトレイには数種類の錠剤と飲料水。
つい漏らしてしまいそうな溜息を飲み込み、頭を振る。考えてしまいそうな、いやな可能性を同時に捨て去る。
やがて目の前に迫った重厚な扉。
軽いノックをした後に、室内の人物に伺いを立てる。
「失礼します、ヴィクトール様」
そして扉に手を掛けた僕は、トレイに乗せた飲料水をこぼさないように、そっと内側へと押しやった。
目の前に広がる惨事に、気づきもしないで─── 。
「ヴィクト−ル様ッ!」
思わずトレイを放りだしそうになるのをグッとこらえ、足早にベッド脇へと歩み寄る。
天蓋つきの巨大ベッド。
上等なシルクのシーツが、鮮血に赤く染められていた。部屋中にムッと血の匂いが漂っている。
「ヴィクトール様!ヴィクトール様ッ!!」
トレイをベッド脇のテーブルに乗せた後、慌ててその顔を確かめる。
蒼白な、やや頬のこけた、だが相変わらずの美貌がそこにはあった。唇は乾いて白い。
血の流出源は左手首。
その傍らに落ちている血塗られたナイフは、先日彼が自分に求めたものだ。
果物を切るためにほしいから、と。
「………なんてことだ…」
頭がガンガンする。あんな言葉を信じた自分がバカだった。
彼が、ヴィクトールが常々死を求めていたことを一番知っているのは、自分だったはずなのに。
嫌悪感で吐きそうになる。そのナイフでそのまま自分の喉笛を突きたい衝動に駆られる。
だが事態は急を要した。
「ヴィクトール様!起きてください、私です!エーリヒですっ!」
揺さぶることができないために、耳元でできる限りの声をあげる。
その間も急いで止血を施し、点滴を打つ。なにもできない自分をふがいなく思いながら、だがどうすることもできない事実に、ただ悔し涙が出た。
「お願いです……ッ!どうか…どうか目を覚ましてください!!」
すがる思いでその手を握りしめ、呼びかけ続ける。
声が、かれるまで。
─── どれくらいそうしていただろう。
「……ヒ………エーリヒ……」
掠れた声がした。握った手が、微かに握り返される。
はじかれたように顔を上げる自分。涙で濡れた目が、痛かった。
「ヴィクトール様……?ヴィクトール様!?」
「……なにを…泣いてる……」
うっすらと開かれた瞳が自分を見つめる。二度と開くことがないと思っていたそれが、ブルーグレイの瞳が蘇ったことに、再び涙があふれた。
伸びてきた手のひらがそっと頬に添えられる。
「泣くな……」
「もう喋らないでください」
本当はもっと聞いていたい。この声を、自分を見つめる瞳を絶やしたくはない。
だが彼の疲労は目に見えてひどく。これ以上の追求には耐えられそうになかった。
それなのに、彼の次の言葉に頭の中でなにかが切れる音がした。
「なぜ……死なせて…くれない……」
ユーベルメンシュは短命だ。既に30を過ぎた彼はたしかに死期が近い。それは彼自身が一番知っていることだ。だがそれに追い打ちをかけるように、先日元首が亡くなられた。
────それからだった。
彼がこれほどまでに死に固執し出すようになったのは。
だが今の言葉は。昔の彼からは想像もできないような、弱音で。
昔の姿を、彼の誇り高き言動を知っているからこそ、自分にはそれが許せなかった。
押さえ続けていた気持ちが一気に沸騰するのが分かる。
気がつけば、苦痛に顔を歪ませる彼をベッドに押しつけていた。掴んだ手首が信じられないくらい細く、その事実に自然涙が浮かぶ。
彼は確実に、死へと近づいていた。
「あなたはッ……あなたはご自分がどのような状態なのか、まったくわかっておられない!なぜ生きようと思わないのです!?なぜ、あなたの生を願う者がいるとわからないのです!?」
「なにを……言ってる………」
「僕の気持ちをご存じなのでしょう!?それなのにこんな仕打ち……あなたは勝手だ!残される者のことなど、少しも考えてはいない!」
「エーリヒ……」
「なら、僕がなにをしようとあなたには関係ありませんよね」
自分がひどく皮肉げな笑みを浮かべているのがわかる。
そして組み敷かれたヴィクトールの表情が一気に凍り付くのも。
だがそれら全てが彼の生きてる証のようで。僕はそっと、唇に口づけた。
「……エーリ…!」
「しっ…静かにしてください。酷くはしたくないんです」
言いながら、乾いた唇を舌でなぞる。ゆっくりと、丹念に水気を与えるように。
「ずっと、こうしたかったんです……」
潤った唇を無理矢理こじ開け、その奥に潜んだ舌を絡め取った。それは思っていた以上になめらかで、あまりの心地よさにうっとりと目を開いた。
すると目の前には苦しげに顔を歪めたヴィクトールの顔が間近。
クスッと笑い、その乱れた前髪を払ってやる。こめかみに、小さなキスをした。
「そんな顔、しないで。僕をこうさせたのはあなたなんですよ? 」
「なにを……」
「あなたがあんなこと言わなければ、僕はこの思いをずっと胸に秘めてました。あなたが死ぬまでずっと、誰にも言わず、心の奥に閉まっておこうと思ってました」
なのに、と言葉を続ける。
その間も唇が触れるだけのキスを顔中に散らせて。その耳元に唇を近づけた。
「あなたは死ぬ間際もあの方のことしか考えていらっしゃらない。死してなお、あの方はあなたを縛り続ける……僕などには、勝ち目はありません」
わかっていた、そんなことは。
あの方の青緑の瞳が脳裏に蘇る。望んだ者を手に入れた満足げな笑みが、見える。
「でも、今宵……せめて月が雲に隠れる間は、僕のものになってください……」
涙の浮かんだ瞳で微笑む。
こうでもしないと彼を手に入れることのできない自分が滑稽だった。
ヴィクトールの唇が動く。
言葉を聞きたくなくて、半ば強引に唇を重ねた。
「んっ……んぅ…」
鼻にかかった彼の声に、下半身が刺激される。こんな声を聞けるのは自分だけだという優越感に、更なる快感が生まれる。
「好きです……ずっと、好きだったんです……ッ!」
ただがむしゃらに身体をまさぐる。胸の突起を舐め、つねり、甘噛みして彼の声を聞く。
そして次第に反応してきた身体。
雄々しく立ち上がる下半身に、そっと手を伸ばし、指を絡める。
「うっ……」
「感じます?ご無沙汰だったでしょう……どうしてほしいか、言ってください」
半年の闘病生活は、彼に禁欲を強いた。
だからわかる。彼の身体が酷く快楽を欲しているということが。
その証拠に、手にした彼のモノがひくひくと先走りの涙を流し震えている。解放の時を切望している。
だが自分の気持ちを無視し続けた彼に意地悪がしたくて。
プライドの彼がそんなことを言えるはずがないということを承知で、耳元でそっと囁いた。その声にすら、ぴくりと反応する敏感な身体。なにもかもが、愛しかった。
「言ってください。でないと、わかりません」
僕は初めてなので、と告白するが、それがよけい彼を焦らしていることも知っていた。
そんなことはどうでもよいのだ。
彼が今欲しているのは、告白ではなく、快楽。
きゅっと引き結ばれた唇にちゅっとキスをし、軽く掴んだ指を上下に扱いた。
「あっ……く……やめ…」
「やめていいんですか?こんなになってるのに?」
言いながら、更に扱く。手の中のソレは、既に倍の大きさになっている。先走りの液がくちゅくちゅと卑猥な音を立てる。
「んっ…は、ああ……」
「やめろぉぉ〜〜ッ!!」
生々しい男同士の情交はあまりに刺激が強すぎて、かつ、気持ちが悪い。
渾身の力で身体の操作権を奪い返すと、どこからかE−73の抗議の声がする。
(だめよ!これからがいいところなのに!)
「俺が寝てるときにでも見ろよ!」
そんな彼女に怒鳴り返し、俺は出てきた扉を無理矢理こじ開けた。