『逃走編』−相手を前に背中を向ける行為は反則、よって報いを受けよ−


 面倒なことは避けるに越したことはない。
 そう思い、そのまま後ろを振り返らずに走り出そうとしたところでグイッと背後からシャツの裾を握られた。
「うわっ……!」
「逃げるな」
「お前……シドー!?」
 力強い腕に引き寄せられ、勢いのまま背後に倒れると辿り着いたのは温かい人肌。
 耳元で囁かれたのは、聞き慣れた低い声音。抑揚のない台詞。
 驚いて振り返れば、ここ数日間何度も思い出した東洋系の証でもある漆黒の瞳と目があった。
「なっ…なんでお前がこんなところにいるんだよ!」
「お前から呼び出したからだろ」
「へ……!?俺が!?」
 意味がわからないとはまさにこのことだ。
 だが怪訝そうな顔をする俺をどう思ってか、ズボンの尻ポケットから1枚のメモを取りだしたシドーがどうだとばかりに目の前に突きつけてくる。
「今日の夕飯時に渡してきたはずだ」
 まさかもう忘れたのか、と表情には出さないが明らかに呆れている。
 だが全く記憶のない代物を目の前に突き出されても、なんと答えて良いのやら。
 ひとまずメモに目を通せば『今夜9時に基地外のいつもの場所に』と間違いなく自分の筆跡でそう書かれている。
「いつものって……そんなに俺達頻繁に会ってたっけ?」
 たしかにシドーとは同じ新兵ってことで仲は良かったが。
 こんな台詞が使えるほど、定期的に約束をして会うようなことはなかった。
 そう思い、素直に言葉にしただけなのに。
 自分を抱きしめる腕が瞬間強くなった。尋常でない力に僅かに顔をしかめる。
「おい、シドー。もういいから離せよ」
「どうした」
「どうしたって…なにがだよ……ちょっ、シドー!」
 グイッと背後から顎を掴まれる。自分より背の低い彼の顔がすぐ近く。背伸びをしているんだと気づいてすぐ、シドーの行動の意味が分かった。
「…………寝ぼけてるのか」
「そんなわけねーだろ!」
 唇を覆った手の甲に奴の唇が触れる。
 すぐさま唇を離したシドーが元々細い目を更に細めて見つめてくるのに、俺は耳まで赤くして怒鳴り返した。微かにゆるまったその腕から逃げ出し、目の前のシドーと対峙する。
 キスしようとしてた。
 その事実に周囲の熱気すら忘れ、冷や汗がどっと吹き出した。
「機嫌が悪いだけか」
「ふっ……ふざけんなッ!」
「まぁいい」
 なにがどういいのやら。
 問い返す前に、再び数歩近づくとスッと唇に指の感触。
「今はこれで我慢するか」
 次いでその指を自分の唇に持っていき、微かに笑むシドーが目の前。
「なっ………!」
 あまりの恥ずかしさに目眩がする。
 間接キスだ。
 あのシドーがこんな恥ずかしいことをしてみせるとは。本当にこれは夢なのかもしれない。
 真っ赤になったままなにも言えないでいる俺をどう思ったのか。
 小さく鼻で笑うとそのまま振り返るシドーが足を進める。基地に帰るんだと、わからないながらも直感でそう思った。
「シドー……」
「明日はもう少し期待させてくれるといいんだが」
 こちらに背を向けたままそう答えるシドーに、またも動悸が早まる。
 もしここが本当に夢の世界であるなら。
 夢の俺は一体どんなことを奴にしてるんだろう。
 考えただけでも鼻血が出そうな答えに、俺はその場にへたりこんでしまった。
 するとそれまでジャングルだと思っていた周囲が次第にぼんやりとその形を崩していくのが視界の端に写った。
 慌てて顔を上げれば、あたりは真っ白な世界で。
 再び見慣れた扉が目の前にあるだけだ。
「なんなんだよ、ほんとに……」
 思わず愚痴り、だが残された道を選ばずにはいられ雰囲気を理解して。
 脱力する身体をなんとか鼓舞し、俺は仕方なくノブに手を伸ばした。

 

選択の余地なし